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2015年10月20日~12月25日


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10月24日、時計が伝えている時刻を一時間戻す。サマータイムはもう終わりだ。いや正直に書き直すとこれに気付き時刻を合わせたのは一週間経ってからで、それまで一時間早い時間の中でひとり生きていた。日陰を探していた季節は終わり、逆に日向を求めるようになっていた。手袋なしで走るのはもう難しく、昨冬使用したハンドルカバーも再度縫い付けて10月中旬から活躍してくれている。

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ラテン語に分類されるルーマニア語の起源は紀元前にこの地を支配していたローマ帝国に遡る。そのため、フランス語やイタリア、スペイン語などどれかひとつでもかじっていれば、何単語か意味が拾えてギリギリアウトなトークが展開できることもたまにはあるはずだ。比較的陽気な人が多く、その辺他の東欧の国々とは一風変わっていると感じる人も多いかもしれない。

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カルパチア山脈は赤黄色に燃え一年で一番美しい姿で迎えてくれた。太陽光が紅葉に染まる山村を輝かせ、山水では気持ち良さそうにもみじが泳ぐ。山間部周辺の広い敷地を持つ家々は家畜のためか黒クマ対策かどこも柵で囲まれていて近づけない。いったいどうやって建てられたんだろうかと考えてしまうような山の急斜面に建つ家々を見上げながら過ぎて行く。

on the steep slope

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霧で視界の効かないプリスロップ峠(1,416m)を越えぶるぶる震えていた。下りの寒さを甘くみていて、下る前に着込むのを怠り、途中止まって何枚か着込んだものの体がすでに冷えてしまっていた。売店に入り紙コップ一杯のカフェを頼むと、地元のおっちゃんたちは喉を指で指すあのお決まりのジェッシャーをする。「要らんです」と断ったけど、親切に盛ってくれちゃってグイっと喉奥へと流し込む。プルーンとかリンゴで作るツイカやパリンカと呼ばれるルーマニアの自家製蒸留酒はアルコール度数60%。カァーっと確かにあったまる。

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丘陵地帯に積まれた干し草の山々は長閑なマラムレシュ地方の風景にさらなる優しさを添え訪れる者の心を和ませてくれる。家畜が厳しい冬を生き抜くための貴重なえさとなるこの草山作りは夏の間の大事な仕事のようだ。木造教会や凝った彫刻がされた木製門を構えた家のある村々を通り抜けると、次なる国ウクライナへの入口が見えてくる。

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世界一の美人の国と聞いていたためいつになく緊張が走る。イミグレ職員のおばちゃんは早速その噂に違わぬ容姿の持ち主で、押してくれた入国スタンプさえも美しかった。旧ソ連の国々のスタンプがひっかかるのか、理由は分からないが特にトルクメニスタンのスタンプに彼女は異様に反応していた。クリミア、東部問題とロシアとの関係で揺れるウクライナ。緊迫しているロシアとの情勢を反映しているようだった。出入国スタンプは貴重な記録なので、このおばちゃんのように美しく押してくれとは言わないけれど、せめて読めるようには押していただきたいと、パスポート上の解読不能なスタンプや逆さまに押されたスタンプを見ながらそう思う。

stamp

ukraine

putin

国境を越えても同じ紅葉色のカルパチア、紅葉末期を迎えても景色はまだまだ美しい。ザカルパチア州の田舎道を走っていると後ろから自転車に乗ったキリルという青年がついてきた。「カフェでも飲んできなよ」 並んだところでそう誘われ、10分後にはカレネという村にある彼の家で奥さんのヤナが用意してくれた軽食を前に寛いでいた。「泊まっていけばいい」と彼は言ってくれたけど、この日まだ走り始めて間もなかったことに加え、気温が下がらないうちにカルパチアを越えたいと思っていた僕にはその気はまったくなく、理由とお礼を伝えて立ち上がった。「今夜はボルシチ作るんだけれど」 ヤナが呟くように言ったこの一言で靴ひもを締める手が止まり、聞き覚えのあるその名前の料理を思い描く作業が頭の中で始まった。しかしイメージが湧いてこない。この時点で間違いなく僕はそれを目にしたこともその味を体験したこともなかった。そしてその5分後には2杯目のカフェを前に再び僕がソファで寛ぎ始めていたのは本当の話です。本場ウクライナで人生初のボルシチに出会えるとあらば泊まっていかないわけにはいきますまい。それが街中ではなく田舎でそれも美しい自然に囲まれたカルパチアの家庭においてならば尚更にそう思えた。

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Carpathian road


2人にはウクライナ語の簡単な挨拶とキリル文字の読み方を教えてもらった。字に音がつくと意味がわかる単語がたまにある。ウクライナ語、ロシア語には英語や他の言語と共通する単語があったりするからだ。読み方を習って看板に書かれた言葉や標識がなんとか読めるようになり、それ以降のウクライナ、ベラルーシでは俄然旅しやすくなった。なんでもっと早くに学ぼうとしなかったのかと中央アジアやコーカサスでの自分の怠惰が悔やまれた。それともキリルにキリル文字をこの地で習えたのはちょっとした運命だったのか。

Cyrillic letter

pharmacy

ボルシチを拝む前に庭の草刈りとくるみ採り、ボイラー室内での薪割りを手伝う。落ち葉を鍬で集めれば枯れ葉の下にたんまりとくるみが自然と集まっているため一石二鳥。カルパチアでもガスストーブを使用している家庭は多いようだけど、キリル家では薪ストーブを使用しているため、ロシアによるガス供給停止やガス代金の値上げに苦しむ国内にあっても幸い彼らの生活への影響は少ないようだ。ただ2014年2月の政変後の通貨フリヴニャの暴落で輸入品の値が跳ね上がり、インフレが横行しているウクライナ。外貨で旅する旅行者にはヨーロッパにいるとは思えないような有り難い価格で物が買えサービスが利用できるのだけれど、ここで暮らしがある人々には深刻な経済状況が続いており、それは自然の中で暮らす彼らにとっても直接的でないにしろ例外ではない。

walnut

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ちょうど一年前だというカルパチアの森での結婚式の映像を見せてもらいながら、ボルシチやヴァレ二キ(ウクライナの餃子)といった郷土料理を頂く。ボルシチは牛肉でとった出し汁にすりおろしたビート(赤いテンサイ)と数種の野菜を入れよく煮込んだスープ。ビートルートの赤紫色そのままの甘いスープはべらぼうに旨かった。その後何度か国内外で食べる機会があったけれどそれらはこの晩頂いた幸の足元にも及ばぬ味だった。食後、キリルは結婚一周年記念で作ったというヤナへのラブソングをどういうわけか自分にも聴かせてくれた。親指を立てて「ヂァークユ」とお礼を伝えた僕の顔には ”2人のときやればいいじゃん” というような失礼なことはもちろん書かれていなかったはずだ。結婚式場となった森が自分が前の晩テントを張っていたすぐ裏だと判明、なんたる偶然とお互いにこのとき思って笑っていたけれど、後から考えれば、だからこそ僕はその場所にテントを張ったに違いない。2人が式場に選ぶほど美しい場所だったのだから。

wedding

borscht

varenyky

畑を挟んで隣の建物に住むキリルのおばあちゃんが翌朝の出発前にチャイに呼んでくれた。庭のベンチに座りながら、まるで僕が言葉を解せるかのようにたくさん話をしてくれ、僕もうんうん頷いていたけど正直さっぱり言っていることが分からなかった。わかったのは旦那さんは亡くなり、息子4人娘4人の8人の子どもがいることだけ。 ”旦那さんはあちらにおられるんですね” と、指で空を差して手振りで確認すると、おばあちゃんは下を向いて土を指さした。なるほど、彼女らの信条には生まれ変わりという概念はないということなのか。最後にばあちゃんにきつく抱きしめられた。言葉の壁をぶち壊すのに十分だった。”ここに居てよかったんだろうなぁ”と少なくともそう思えた。

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11月4~6日にかけて3つの小さな峠を越えカルパチアの山越えを終えた。峠道に雪はまだなかったけれど日の当たらない場所はすでに凍結しており、それに気付かずスピードを出したままスリップして派手にぶっこけた。車が後ろからやってきたため、右膝と右手に激痛と痺れを感じながらもなんとか立ち上がり、ポーカーフェイスで平静を装っていたけれど、車が見えなくなったその瞬間、赤ん坊のように顔をしわくちゃにして泣きそうになっていた。

山を越えたところで急激に寒気がやってきて今にも雪が降りそうな空気になった。この日、日中1度まで気温が下がり、ペダルを止めて羊毛靴下をペラペラ靴下に重ねて履いた。厚みで靴がパンパンにはち切れそうだったけれど、凍てついていたつま先がだいぶ楽になった。「もうじき雪が降り始めるから」と、ばあちゃんは手編みの羊毛セーターと羊毛靴下をもたせてくれていた。キリルとヤナからも2人の名前がかかれたキーホルダーのお守り、カルパチアの森で摘んだハーブなどたくさん頂きものをしてしまった。氷点下の夜もこの香り豊かなハーブティーが体を温め疲れを癒してくれた。

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樺太とほぼ同じ緯度にあたるウクライナの11月は日出が7時前後で日没は17時頃。といっても、気持ちよく日が出てくれることは滅多にない。基本天気が優れず、木々は枯れあまりに寂寥としている晩秋から初冬にかけての東欧。カルパチアを越えてからはベラルーシで雪一面の景色の中に身を置くまで、一度も美しい風景を見つけることはできなかった気がする。朝晩は冷え込み、結露も激しいのでテントの設営はなるだけ東側に朝陽を遮るものがない場所を選ぶのだけれど、朝雲は重く太陽を包み隠しそれが報われることはほとんどなかった。ウクライナ正教の教会も季節が違えば緑に映えてもっと明るく見えてていただろうに。

road

fallen leaves

bridge

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church

首都キエフではジョージアのバトゥミで出会った芸術家トリックを訪ねた。トトロスタジオと名付けられた彼のアトリエは、芸術家たちが好んで住み中心部とは違った雰囲気を醸し出しているポディールという地区にある古いビルの5階にあった。キエフ滞在の前半、僕はこのスタジオ内にテントを張らせてもらっていた。スタジオ内にある彼の作品の多くにはウクライナの抱かえる葛藤、不安、不満といった感情が暗に表現されている。

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2014年2月、キエフの独立広場で起きた親欧米派市民によるデモにより親ロシア政権が崩壊。この政変後、ロシアはクリミアに侵攻し一方的にロシアに編入した。西部にあるリヴィヴのドミトリーにいたとき、クリミア内にある特別市セヴァストポリから来たという旅行者が隣のベッドに寝ていた。交わした短い会話の中で、編入後ロシア国籍のパスポートに変わり、通貨はルーブルに変わり、クリミアから出る際も”出国”扱いになり多くの時間がかかったと彼は話していた。クリミアに続いて同国東部のドネツク州、ルガンスク州でもロシアへの編入を求める分離・独立派が独立宣言し、革命政府軍と親ロシア派武装勢力の間で紛争が続きこれまでに多くの難民、国内避難民を出している。ウクライナの人口の2割程度を占めるロシア人の多くが南部、東部に住み、ロシア語を母語とするウクライナ人もそれらの地域に多く暮らしている。加えてロシアにエネルギーを依存していることもあり問題はとても複雑。ソ連崩壊後もオレンジ革命後も今回の政変後もウクライナはロシアとの関係に常に揺れながら民主化への道を模索している。

tolique's art

tolique's art

紛争地を除けば争いが起きていることなど全く感じることなく普通に旅することができてしまう国内。自分の持つ浅い国内事情に対する理解では、トトロスタジオに置かれた彼の作品に深く感情移入することは正直難しかったけれど、少なくとも出国を前にして、母国の行く先を案ずる彼が作品に込めた想いを計り知ることで ”起こっていること” に注意を向けることができたことはせめてもの救いだった。窓の外では水分を多く含んだ雪がキエフの街に降り始めていた。

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12月8日、無事にベラルーシ入国を果たし最初の州ゴメリに入った。モスクワ時間(+3)が採用されているのに気付き、手元の時計が伝えている時刻を一時間進めたのはやはり何日か経ってからだった。西隣のポーランド(+1)から来たならば2時間の時差が生まれることになる。ヨーロッパの国々でモスクワ時間を使用しているのはこのベラルーシだけではないかと思う。

beralus

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ベラルーシ南東部にあるゴメリ州は、旧ソ連時代1986年に起きたチェルノブイリ原発事故(現ウクライナ領)による放射能汚染が最も酷かったところ。風向きの影響で放射性降下物はこの地に多く降り注ぎ農地も大きな被害を受けた。今もたくさんの人々が暮らしているけれど、州内には居住禁止区域が存在しており、事故後強制的に移住させられた人々も多い。州都のゴメリの町を離れてから同州走行中は、田舎の商店での産地不明な野菜を購入するときは少し怖かった。事故が起きたのはもう30年も前のことだ。農家の人々が汗水垂らしながら育てた何の問題もないであろう野菜を疑いの目をもって見なければならないのは申し訳ないことだった。

chernobyl

houses

僕が旅した2015年12月時点でレジュラーガソリン1リットルは約11,000ベラルーシ・ルーブル(当時レート約75円)で売られていた。ちなみにウクライナでは当時約18フリヴニャ(同約100円)、EU加盟の隣国のリトアニアでは1ユーロ(同約130円)とベラルーシの倍近い価格だった。ベラルーシはヨーロッパで一番ガソリン価格が安い国かもしれない。この低価格をもたらしているのはもちろんロシアとの結びつきの深さなのだろう。

horse wagon

castle

tent

民族主義の感情が高まりロシア語を公用語からはずそうとする動きさえあるウクライナとは対照的に、ナショナリズムを自ら否定するかのように親ロシア政策を取っているベラルーシ。ベラルーシ語を実際に生活の中で使用している人はほとんどおらずもっぱらロシア語が国内では話されている。

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首都ミンスクではそんな国を嘆く民族主義活動家のカイ(仮名)との出会いがあった。彼女はトリックの奥さんの友人でキエフにいるときからお招き頂いていたのだけど、ミンスクではビザ取得の際予約してあったホステルに滞在する予定だったのでそう伝えていた。ところが、雪原を貫く道を数日走ってようやく着いたホステルはモスクワから来たテコンドーチームのちびっこたちにベッドも通路も占拠されており、大会が続く翌日からはまさかの満ベッド。装備を乾かすスペースもなく疲れもとれないままに、翌日街の反対側にあるカイ宅へ自転車で向かっていた。10月広場には大きなクリスマスツリーが立っている。整然とした都市ミンスクは予想に反してなかなかに心地良く、空間に恵まれた静かな首都だった。

minsk

Lenin

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「あなたがバッグにつけている国旗はロシアの侵略の証よ」 カイに会ってすぐに言われた言葉だった。聞けば現在のベラルーシ国旗はソ連邦内の共和国だったときのデザインをほぼそのまま受け継いでいるものらしく、カイが国旗と認めるのはそれ以前に使用されていたものらしい。ルカシェンコが大統領に就任してからこの国はおかしくなったと彼女は続けた。ヨーロッパ最後の独裁者と呼ばれるルカシェンコ大統領は1994年から現在まで権力の座に居座り続けており、ロシアとの関係を重視した政策をとっている。政権批判、大統領批判は身の危険を意味し、国民は表現の自由を許されていない。

stalin

ussr

“国立の学校で決められた教科を勉強するだけの一様な教育ではなく、人の内面を豊かにするような自由なスタイルの学びの場を子どもたちに提供するための学校を設立したい”

カイはこの社会主義政策化の国でそんな理想を持ってやっきた。過去にその思いにのっとって、子どもたちの集いの場を設けたことがあるようだけれど、政府の意向に沿わない行為とみなされ当局がやってきて活動停止を余儀なくされたらしい。カイは子ども向けの本などを手掛けるデザイナーのようだけど、現在は仕事を休んでおり、水面下で再び非公式の学校設立に向けた活動に専念しているという。具体的には有志を募ったり、資金の援助をしてくれるスポンサー探しといったことらしい。電話やネットの通信内容は国家保安委員会(ベラルーシKGB)の監視下にあり、常に危険を伴うようだ。カイがどのようにそのような呼びかけを発信しているのかはよくわからない。「もし、この国が変わらない、この国を変えられないようならば他の国への移住を考えるしかない」 カイはそう言っていた。

Putin e Lukashenko

別の日、7歳になる娘マルタ(仮名)を迎えにカイと一緒に学校へ歩いて行く途中、カイはマルタが以前見た夢の話をしてくれた。マルタがカルパチアの森の中にあるお城でお姫さまとして暮らしているという内容の話。興味深いのはマルタはカルパチアにまだ実際に行ったことがないということ。カイ自身がカルパチアを好きなことと、またマルタの見たその夢のこともあり、将来彼女はマルタとカルパチア(ウクライナ)に住みたいとも可能性的に本気で考えているようだ。この国で国体に反した理想を持ちそれを実現することがどれだけ難しいことかということをよくわかっているのだろう。そして彼女の活動は他の誰のためでもなくマルタの将来を思ってのものだ。ウクライナは言語やビザ面での事情を考慮しても彼女らにとってもっとも現実的な移住先なのだと思う。教室に入ると授業を終えてお友達とおしゃべりしながら待っていたマルタが自分に飛びついてきた。子どもが無口な自分になついてくれることは大変稀なもので戸惑いながらも当然悪い気分はしなかった。

だるまっぽい

夢の話を聞いた夜、キリルとヤナにもらったカルパチアで採れた葉や花でハーブティーを入れて差し出すと、その前の晩僕が作った肉じゃがのときには見せてくれなかった幸せそうな微笑みをマルタは返してくれた。

翌朝は未明から出る必要があっため、残りのハーブを寝ているマルタの枕元に置いて出発した。日本再出発前、友人が持たせてくれた華やかな友禅和紙でその香りを優しく包み込んで。マルタはこのときもカルパチアのお城の庭の中でも歩いていたのかもしれない。彼女もいつかヤナのように錦秋のカルパチアの森でお嫁さんになるんだろうか。

white landscape

white landscape

ビザ期限日当日の12月25日、日没後の薄明かりの中で予定していたリトアニアへの国境に着いた。他に越境者は誰もおらず国境は閑散としている。期間内に走りきれた達成感とベラルーシとのお別れにしみじみとしたもの感じていた。やっと出てきた少し驚いたような表情の職員たちにパスポートを見せると、「ニェット」であり「ニモジナ」であるからして、つまり、「お前(外国人)はこの国境を越えることはできんのじゃパタムーシト」と言っている。代わりに案内された自転車で越境できる国境までの距離はそこから50km。初めて聞いたベラルシアン・ジョークはなかなかに斬新で面白かった。笑えなかったのはそれがジョークではなかった点だ。

map and design

街灯のない真っ暗道をヘッドライトの明かりを頼りに進む。雨が降り出すとお次はパンク発生、路脇のドロ地を避けてチューブに開いた穴を探す。こんなときに限ってライトの照度が弱く、またオーバーステイの文字がチラつき焦ってしょうがなかった。途中唯一あった町の住宅街には鮮やかな電飾のライトが点灯しており、家々ではパーティーが行われているようだった。正教のクリスマスは1月7日のはずだけれど、国境付近にはカトリックの人々が多いのかもしれない。案内された国境に着いたとき、時刻は23時を回ったところだった。めでたく出国を許可され、ロシアによるベラルーシ侵略の証をバッグから剥がすと、まもなく僕はリトアニア領の茂みの中へと消えていった。この年の、長く、慌しく、そして静かなクリスマスの夜の記憶は今に残っている。

at dark

僕が眠っていたこの秋と同様、東の空の下で続く争いとは対照的な静かな時間がこれからもずっとカルパチアの森には流れていくことでしょう。10年後、その森にキコリとして移住し、ミンスク出身のお姫さまと偶然を装った再会を僕が計画していることは内緒でお願いします。キリルの新しいラブソングが聞こえる前に、森が錦色に染まる前にハーブをたくさん集めておこうと思います。

red yellow field

smile from minsk



@Whitehorse/Canada
dancing lights
holy dancing lights above sacred Mt.Montana
(the end of January)


1st~2nd January 2017

 26 November, 2013. In the morning just before leaving Africa where I had been wandering around for four years for Mumbai, my friend Silja, grandmother of my host family in Johannesburg, smudged me outside the entrance of their house with a white-colored herb, called Mpephu, that the Xhosa and other African people use for healing and other ceremonies, in order that I could make a new start with new feeling in India, the first Asian country of my cycle trip.

 I went out for a walk 20 minutes before coming year 2017. Snow-covered tall spruce trees always looked well under a starry sky. My wintering village in southern Yukon is located at almost the south end of the aurora zone. Here you can usually see northern lights when the sky is clear enough and aurora activity is high enough. I had seen some dim band of the lights by the time but had never seen dancing ones that I became fascinated with in the interior Alaska and more northern parts of Yukon on the way there. This winter seemed not to be periodically as good as usual to observe them.

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 Just midnight, I reached a bridge suspended over a river flowing between two lakes. That was the place I always came over when going out for a night walk. Though the northern sky sending out a faint green light, unfortunately magical dancing lights I had long expected didn’t appear this special night either. In this time of the day and the year, the Orion is in a southerly direction, and the Big Dipper in the northeastern sky in this north. Along with the Cassiopeia, those two were all constellation that I could tell after having looked up the star-filled sky so many times in so many places of the world, which actually have not changed at all since I was an elementary school kid. It would sound most romantic to say it’s because it always ceases to be a matter to think of their name while looking up the beautiful sky in the silence. It was warm that night with temperature around only -10 degrees Celsius. Ice in the middle parts of the lake totally melted away and water started flowing down again as if it had been so all the time. I saw some blocks of ice floating on the stream from time to time. In the small village with a population of more or less 400, as the houses spread across a wide area, I could see only a little light of the houses from the bridge. After stayed there for nearly 20 minutes, I went back following my track on the new-fallen snow in the opposite direction without having “hatsumoude”, a Japanese word means the first visit of the year to a shrine. The dawn of the year was nothing special except for the sound of the fireworks in the distance.

 On the bridge I thought of an idea that it would be better to smudge myself with sage for purifying my body and mind before the new year’s prayer. That’s the reason I hesitated to have hatsumoude at the time that I had planned having there. Native people have long been smudging before the sacred ceremony. Just like her ancestors, Shirley, my friend and my host in Yukon, never becomes lazy to smudge people including herself, the places, and anything she got from the land with giving thanks to the creator, her ancestors and any kind of spirits being in nature. It’s for purification,meditation and getting rid of negativity. There is a big bowl with a bunch of sage inside in her house that she picked up at the nearby fields and dried well during summer. I sometimes help to take out its leaves from the stem. Distinctive scent of healing comes out when rubbing off the leaves. The next morning, I asked her if she wouldn’t mind me taking some sage with me for hatsumoude coming night. She kindly gave me allowing in a moment and moreover unexpectedly she willingly started smudging for me right there. She might have planned it for me.

sage

 Opening a purple colored table cloth and putting things on, she burnt sage leaves with a match on a brown ceramic plate with a bear footprint on the surface. While chanting her gratitude to the creator, ancestors and spirits she brought in the smoke to herself with her hands and fanned it throughout my body using a big eagle feather. Sage, tabacco from her garden, some other herbs from US, and special herbs mixed up 108 kinds of plants from Bhutan in the Himalayas, tamping a few pinches of those medicine (herbs) into a sacred pipe, she started smoking. It looked she didn’t inhale but just took in the smoke and puffed it out. Bringing in the smoke again to herself with her hands, she handed over the pipe to the creator and other being she called on in front of her. Repeating this way a few times, Next, it’s my turn. I brought in the smoke that I puffed out and put it on whole my body. At the same time, She started singing a song in Tlingit, a native language, while making sound with a rattle made of caribou and moose skin and other materials from the land. “Dikee Aan Kaawu(the creator)…Haa Shagoon(our ancestor)…Gunalcheesh(thanks)…”Chanting so repeatedly she once again fanned the smoke around my body and the places, even in each corner of the room, which put an ends to this powerful smudging.

smudging

 Generally, she uses a big abalone shell shining like a rainbow as a plate when burning sage. The shell came from the shore of Vancouver island on the Pacific coast. But she used the ceramic plate for smudging this time.”The bear foot print on the plate was taken from the bank of the Teslin river, an arm of the Yukon river, which means more powerful because it’s from our homeland”, she explained me the reason. By the way, the native people, still live with their traditional way even while putting themselves in modern life, have a sweat lodge ceremony for their prayer especially in the new year or the summer and winter solstice as well as any other special times. And “ Today, those people are very little, it’s the situation” She said. There was a sweat lodge until last summer in the compound of her house where people, respectful of their traditional customs, from all over the area came to sweat. But it has been closed to give the land a rest since last summer.

 2 hours before the midnight, when I said “I’m going out for new year’s prayer”, Shirley kindly let me take not only a packet of sage but the abalone shell and incent sticks gifted from a Rinpoche with me. Standing in the center of the bridge and looking toward the northern lake, I prepared for the prayer. The sound of the ice in the frozen lake cracked echoed around the place like drumming. This night was a bit colder with temperature around -20. It’s still not very cold but shortly after off my gloves I started pain on the tip of my fingers. After burnt sage in the abalone shell and the incent sticks with snow as a stand, I started praying in my way with joining my hands to the spirit of the sky, water then the spirit of the mountain after turning around toward southwest so I could put myself faced with the Montana mountain some 40km away though her body could not be seen from there. The object that people in the Land of the Rising Sun has regarded for their religious belief from ancient times is common to animism the indigenous people believe. Therefore, I’m always naturally able to feel empathy for what she talks and their way of living I think.

 In addition to for the people in this area, the Montana mountain has been thought of as a sacred mountain for Tibetan Buddhist. In the early 1960’s, the 16th Karmapa from Bhutan visited this land and gave his teachings to the people. The elders in the land so fascinated by his teachings gave him a piece of their land on the Montana mountain. To this day, the Buddhist still owns that piece of land. And several years ago, an important Rinpoche from Bhutan came to have a prayer on the summer solstice with his entourages for the first time since then. Shirley, had dreamed of their arrival in advance, told a chief of her village about the dream following a message from medicine Buddha walking one a path in the Himalayas and coming close to her in her dream. "There are many more people coming so you have to get ready." Buddha said to her. Thus about 150 people welcomed the Rinpoche and his entourages on a large scale that day. They celebrated the solstice day together with the Buddhist people with burning a number of different kinds of medicine from Buddhist and aboriginal community of all over the world in a sacred fire and kept burning for the whole day. The following day the Rinpoche invited her alone to come to the top of the Montana mountain with him and other local Buddhists and they had a sacred chanting there for several hours.

at the montana moutain

 Shirley has ever dreamed of many other things which later became reality. She has talked me a lot of stories some mystic force worked on. From a child she noticed the power her dream has and was told by her aunt “The power is medicine (powerful spiritual force), so use it for yourself and to help people.” She doesn’t tell others easily about her power, but people who know well about her or heard of her power through the grapevine occasionally come to see her and ask what she dreamed of. In fact, even as to 16th Karmapa’s visit to their land, an elder there had a dream prior to his visit. It was not until Shirley’s dream of Buddha in Himalayas that people living there including her knew about the thing happened more than a century ago. Native people had not recorded things in writing until not long ago. People have learned their history and knowledge through the stories their elders shared with them and passed it down to the generations in the same way. “Take care about dream.” ”Tell me what you dreamed of.” she often tells me so.

 Praying for my family’s and my friend’s health and my safe trip, once again I rubbed the smokes from sage and the incent stick gently into my whole body from the tip of my toes to the tip of my fingers at the end. I’m repeating what I had experienced in far south that day with different kinds of medicine in this northland. If without the southern experience it may be even possible for me not to show my interest much in smudging that native people practice for purification. At least I wouldn’t have asked her for the thing about smudging just before this new year’s prayer. What I have been learning here from her and her family also surely would keep giving effects to the rest of my life. Things are all related and are going to connect with each other like a chain, just as a dream sometimes comes out in real life.

 A curtain of watery lights started floating in the northern sky. However, it’s unlikely to show me a dance consistently even tonight. A number of stars across the sky always overwhelmingly mesmerize you wherever you are in Yukon. This night, reflected on the surface of the water, it looked as if shining more brightly with even more stars in the sky from the windless bridge.

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2017年1月1~2日

 2013年11月26日。丸4年を過ごしたアフリカを発つ日の朝、お世話になっていたヨハネスブルグのホストファミリーのシルヤばあちゃんは、玄関を出たところである白い植物の葉を燻すとその煙を僕の身体に掛けて僕の心と体を清めてくれた。次なる大陸インドで新たな気持ちで新たな旅のスタートが切れるように。このときスマッジング(お清め)に使われた植物はムフェフ (Mpephu)と呼ばれるもので、コーサ族や他のアフリカ人が身や場を清めるときに使うメディスン(薬草)だった。

 来たる2017年を迎える20分前から外に出て歩き出した。雪を被った背の高いエゾ松林が冬の星空によく似合う。ユーコン南部にある越冬地の村はオーロラベルト上の南端部に位置している。通常、空が澄み、オーロラ活動が盛んなときには見られるのだけど、今年はあまり良くない周期にあたってしまったのか、淡いものは見られてもアラスカの内陸やここに来る途中の道で見てきたような不規則にめまぐるしく踊り狂う生き物のようなオーロラはこの地に来てからこの時点でまだ見られていなかった。

 0:00。湖と湖の間を流れる川にかかる橋の上に着いた。ここは夜の散歩で僕が必ず来る場所。いつものように北の空が淡く明るい。ただ期待している夜空を踊り狂う生き物にはこの節目の夜も会うことができなかった。この時間帯この地では、南の空にはオリオン座、北斗七星は北東の空に見られる。他の星座はカシオペア座以外ほぼさっぱりわからない。地球上のいろいろな場所から満点の星空を見上げてきたつもりだけれど、相変わらず小学生の頃からこの3つ以外の星座がわからないのは、輝く星々を前にしては「これは何座だろうか」などと考えているうちにそんなことさえどうでもよくなってしまうから、というふうに理由付けしておくのが一番ロマンチックに聞こえる。気温は-10度前後と温かく、湖の中央部の氷は溶けすっかり当たり前のように水が流れている。時折、氷塊が橋の下を流れていく。400余名が暮らすこの集落は家々が広範囲に渡って散在しており、橋から見える灯りは数えるほど。20分ほど北の空を見上げていたけど、淡く白い弧状の帯はこれ以上輝きそうにもましてや踊り出しそうにもなかった。そのつもりで来た“初詣”のお祈りもせずに、新雪についた自分の足あとを逆方向に辿るように白道を歩いて帰った。花火の音が遠くの民家から聞こえた他は普段と何も変わらない静かな新年の幕開けだった。

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 この時新年のお祈りを躊躇ったのは、初詣にはセージの葉を燻した煙でスマッジングをしようとふと橋の上でそう思ったためだった。先住民の人々は昔から神聖な儀式の前にスマッジングをして身を清めてきた。彼女の先祖がそうしてきたように、僕がお世話になっているシャーリーもクリエイター(神)や祖霊、精霊へ感謝を伝えながら、自身を含めた人々に、その空間に、また自然の恵みから得られたすべてのものにセージの葉を燻してのスマッジングをいつも欠かさない。それはお清めであり、瞑想のためであり、あるいは後ろ向きな感情を取り払うためだったりする。彼女が夏の間に家の周りで摘んで乾かしておいたセージが大きな器の中に入れられて彼女の家にある。僕はそのセージの茎から葉を取り出す作業の手伝いをたまにしている。燻さずとも指を擦るようにして茎から葉を取り出すときセージの強い癒しの香りが上がってくる。翌朝、彼女が仕事から帰ってきた折、晩に予定している初詣用にセージの葉を少し使わせてもらえないだろうかと頼んでみると、すぐに了承してくれ、そればかりか彼女自らスマッジングをその場で執り行ってくれた。もしかしたら彼女は初めからそのつもりだったのかもしれない。

 紫色の布がテーブルに敷かれると、クマの足あとのついた陶器を受け皿にその上でセージの葉にマッチの火が点火された。シャーリーはクリエイター、祖霊、精霊への感謝の言葉を呟きながら自身に煙を手で吸い寄せると、次にワシの羽根を使って僕の身体全体に煙を扇ぎかける。それから庭で採れたユーコン産のたばこの葉、セージの葉を始め、アメリカ産の薬草や108種のヒマラヤ(ブータン)産の薬草が混ぜ合わされた葉々を少量ずつ聖なるパイプに入れマッチで燃し吸い始めた。肺に入れるのではなく吐き出すように煙を外に出し手をつかってその煙を自身にかけてから、向かいにいる祖霊にもパイプを献上しお吸い頂いている様子。それを何度か繰り返してから、次は僕にそのパイプが回され同じように吐き出した煙を僕は手で自分の身体に擦り込んだ。そうしているうちに彼女は右手に持ったトナカイやヘラジカの皮などで作られたラトル(打楽器)を振って鳴らし、それを左手に打ちつけながらトリンギット語で歌い始める。「ディキアンカウ、ハアシャグーン、グナルチーシュ」と精霊への感謝を繰り返して唱えながら最後に再びワシの羽根で僕の身体に煙を扇ぎかけたあと、部屋全体にもその煙を行き渡らせて力強いスマッジングは終わった。

 通常、虹色に輝く大きなアワビの貝殻をセージの葉を燃すときの受け皿として使っている彼女。今回クマの足あとが付いた陶器を受け皿に選んだのは、貝殻が太平洋沿岸のバンクーバー島の海岸で採れたものであるのに対して、その陶器の足あとが地元ユーコンを流れるテスリン川の土壌につけられていたものでより“力が強い”からだそうだ。ちなみに彼女含め近代化していく生活の中に身を置きつつも伝統的な慣習を維持しながら暮らす先住民は、新年明けや夏至・冬至の際に、またそれ以外の特別なときにもスウェット・ロッジ(発汗小屋)に入り汗を流し身を清めて祈りを捧げる。そういう暮らしをする先住民は今や極めて少ないという。彼女の家の敷地内にもいつもはスウェット・ロッジがあり事あるごとに多くの人々が方々から訪れるそうだけれど、今は土地を休ませるため昨夏から一年間眠らせているところだった。

 22時頃、「“初詣”に行く」と伝えると、彼女は快くセージの葉を分けてくれただけでなく、小さいアワビの貝殻と、とあるリンポチェ(チベット仏教の高僧)から彼女がもらったというブータン産の線香まで持たせてくれた。橋の中央部に立ち北方に開けた湖を見ながら祈りの準備を始める。凍った湖の氷が割れる音が「ブーン」とドラムの音のように響く。気温は少し下がって-20度。まだ凌ぎやすい気温だけれど、手袋を外すとすぐに指先が痛くなる。貝殻の中でセージを燃し雪をスタンドに線香を立てて、空の精霊、水の精霊、そして南西にあるモンタナ山の方向を向いて山の精霊にそれぞれ祈りを捧げた。日出づる国の人々が古来から信仰の対象としてきたものはこの地の先住民の伝統的精霊崇拝と共通している。だから僕は彼女の話すことや振る舞いに自然に共感が持てるのだと思う。

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約40km離れたところに聳えるモンタナ山はこの地において神聖な山として祀られているだけでなくチベット仏教においても聖地として崇められている。なんでも1960年代にカルマパ16世(チベット仏教最高位の僧)がこの地を訪れたとき彼の教えに魅了された先住民の年長者たちがモンタナ山の一部の土地を彼に与えたのがその所以だそうだ。数年前の夏至の日、以来初めてその聖地にブータンからリンポシェが側近とともに祈りを捧げにやってきた。彼らの到来を夢で見て事前に知っていたシャーリーは“準備しなさい”という夢に現れたヒマラヤの山々の小道を歩きながら彼女に近付いてくる仏からのお告げのもと、その夢を村長に伝え、150人もの人々が総出で彼らを盛大に出迎えた。彼らはともに世界各地の先住民、仏教コミュニティから送られた薬草を聖火の中で一日中燃やし続ける大掛かりな聖なるお清めの儀式を行ったという。このとき彼女はリンポシェにモンタナ山に唯一招かれ、数人の現地仏教徒とともに山頂で数時間に渡るチャンティングを行っている。

 シャーリーは他にもたくさんの出来事を事前に夢で見てきた。不思議な力が働いている話をたくさん僕に話してくれた。彼女は小さいときから自分の夢の力に気付き、彼女の伯母からは「その力はメディスン (強い霊的な力) だから自分のため、そして人のために使いなさい」と言われたそうだ。彼女は簡単に人に自分の力のことを口外しないけれど、その力を知る人々や人づてに聞いた人が彼女が見た夢の内容についてよく訊ねに来るという。ちなみに、カルマパの訪問に関してもやはりこの土地の年長者の一人が事前に夢で見て“お告げ”を受けていたそうだ。シャーリーやこの地に暮らす多くの先住民の人々がその事実を知ったのは彼女の夢があった後のこと。先住民の人々は文字で物事を記録してこなかった。人々は年長者たちが語る物語からその歴史や知恵を学び、物語で後世にそれを継承させてきた。「“夢”を大切にするように」「夢見たことを私に話すように」シャーリーはよく僕にそう言う。

 家族友人の健康と今年一年の旅の無事を祈り、最後にもう一度セージの煙を足先から指先まで身体全体に擦り込む。あの日、遥か南の地で体験したことを、今この北国で異なる薬草を使い繰り返している。あのときのことがなかったら、僕は先住民の人々が日々の暮らしの中で行うスマッジングにさほど関心を示していなかったかもしれない。すくなくとも、スマッジングのことで、彼女にこの日お願いすることはきっとなかっただろう。この北国で彼女やその家族に学んでいることもきっとこの先僕の人生に大きな影響を及ぼしていくことになる。物事はすべて繋がりの中にあり連鎖していく。夢がもつ現実との関係性がときにそうであるように。

 北の空を淡い光のカーテンが泳ぎ始めていた。ただ今宵もダンスは見られそうにはない。どこで見上げても星の数に圧倒されるユーコンの空。この晩、風のない橋の上からはそれが湖面川面に映って一層多く輝いて見えていた。

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おひさしぶりです。いやーすっかり日が長くなりました。16時前には真っ暗だったのが21時をまわってもなんとか視界が利くほど外が明るいんです。雪はまだよく降りますし、朝方は-25度程度まで下がる日もありますが、日射しが日に日に強くなってきて日中は最近毎日+3度前後まで上がり、太陽熱で雪が解け屋根からポタポタと水が滴り落ちてきます。朝晩と日中の気温差がとても大きいのが北国の3月の特徴です。

21日の春分の日の前の夕方、南から渡ってきた白鳥が4羽、湖で羽根を休めていました。ここで数日休んで栄養を摂り長旅の疲れを癒したのち、さらに北に向かって飛び立っていきます。白鳥たちは生まれ故郷で産卵をし、秋にまた子どもたちとともに南へと渡っていくのです。通常は4月中旬頃、南からやってきたたくさんの白鳥が湖を埋め尽くします。大分早く来てしまった4羽は大変です。まだ湖の中央部の氷しか解けていないため、食糧となる草が多く水中に生えている浅瀬に行けずに餓死してしまう危険性があるのだそうです。

今月に入り目に見えて感じられる春の到来にケツを叩かれ続けている冬眠中の僕ですが、「焦っちゃいかん」と4羽の白鳥が身を持って諭してくれていたのかもしれません。雪が解けては降り、また解けてはまた降りを繰り返しているので、道路上の移動はより慎重になる必要がある季節です。昨日今日と相棒を室内に持ち込ませてもらってパーツ交換及び各部の総点検を行いました。4ヶ月ぶりに解凍され鼻息を荒立てている相棒に白鳥の教えを伝え、なだめていたところです。今シーズンも彼は僕を冒険の地へと連れ出してくれそうです。

僕の人生で最も美しい冬が終わりを迎えます。ともに暮らすことを通して多くのことを学びました。それにしてもあっという間だったなぁ。ここに居れてほんとえがったです。心の底からシャーリー家族との出会いに感謝。4月6日、越冬地を発ちます。行く先は白鳥たちと同じく“さらに北”です。

swans


@wintering village/Yukon
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hiromu jimbo

Author:hiromu jimbo
I'm in a challenge to cycle around the world
since May 2009,started from Istanbul,Turkey.
Motivation for this journey just comes from big curiosity about the world.I'd like to see and feel the ordinary life of the people living in defferent cultures.

2009年5月末イスタンブールより
自転車世界一周挑戦中です。
世界で起きていることへの大きな好奇心がペダルを回しています。その土地で生きる人の日常生活を見ていけたらと思います。

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