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2018年7月26日~9月21日

revolución cubana




ミニスカ編みタイツの女性空港職員。その光景はこの島国を訪れるものが与えられる最初の大きなインパクトになるに違いない。垂れ落ちんとする目尻をなんとか吊り上げんとしながら、その斬新な異文化体験をしばし楽しんだあと、その興奮はやがて「なんで?」という疑問に変わっていく。空港だけでなく、銀行やら博物館、公営の店やら中心に、キューバにはミニスカ網タイツ職員がどこにでもいることを、このあと僕は知ることになる。

そんな思春期の少年を悩ませているような疑問を抱きながら入国審査を通過し、ハッと我に帰りパスポートを確認してみると、スタンプの入国日が全く見えない。慌てて戻ってスタンプを押してくれた男性職員に伝えると、インクがないんだといい、コンピュータで管理してるから大丈夫だと続ける。そんな言葉を信じてはいけない。いざパスポートチェックを求められたとき、これが面倒になることは火を見るより明らかだ。滞在延長を予定しての入国なのでチェックは必ずある。付け入る隙を与えるのを防ぐためにも面倒源にはその場で対処しなければならない。大事な記録だから証明のサインなりなんなりくれと引かずにいると、「このチノ(中国人)がっ」と、僕の日本国旅券を手にそういった彼は、ようやく重い腰を上げ、新しいインクを取りにオフィスへと向かった。

なんとか初戦をものにし、預け荷物が回るターンテーブルへ。荷物を運ぶカートはどこにあるのかと、より現実的な疑問の方を網タイツのお姉さんに訊ねてみると、面倒臭そうにアゴをクイっと上げて方向を示してくれた。そこへいってみれば何も無いというのはよくある話だけれども、できれば無いのは愛想だけにして頂きたい。

アゴ先とは逆方向にあったカートを手にして再会した機内預けのナイロンバッグはビリビリに破られており、テープでグルグル巻きにして出てきた。初日は宿でこれを縫って直すことに時間をとられてしまった。ともあれ、自転車が入った段ボール箱は無事、それが一番大事。大きな期待を抱いて渡ったカリブ海に浮かぶ大島、その期待を裏切らないなかなかにわくわくさせてくれる滑り出しだ。

26 Julio

クラシックカーや自転車タクシーが行き交うハバナの街。この島では大人のみならず、小さな幼児までもがクラシックカーのハンドルを握っている。街にはいろんな肌の色をした人々が歩いており、中心部にはたくさんの白人旅行者の姿。クラシックカーが島でたくさん見られるのは、ソビエト産、中国産を除き、経済制裁で新しい車が1960年代から入ってきてないからなわけなんだけれども、皮肉にもその古い現役車たちは今こうして観光客を引きつけている。地元の人にも肌の明るめの人々が意外にも多い印象を受けたけれど、彼らの多くも白人黒人の混血であるムラートであり、ムラータであり、ラテンアフリカンなノリとなれば当然明るい。

un calle de habana

centro de la ciudad antigua de havana

para bebé

「キューバの女には気をつけろ。」キューバ女性は世界一美しいとキューバ人男性はみんな誇る。昔、アンゴラにいたときなどにも感じたのだけれども、ムラータさんは確かに美しい。バスを待っている母娘がいて話していると、「欲しけりゃこの娘、嫁にもらっていっとくかい?」とまるで果物をくれるような感覚でライトな冗談をいってくる。黒人の血が濃い、美しい子で、バスが来るまでヘビーに意識してドキドキしてしまった。このライトな冗談は、どこかの大陸でもよく聞いており、その度に僕はもうひとつうまい返しができずに苦笑いを繰り返していた。

mulata

カフェテリアに入り、ハンバーグとコングリ(豆ごはん)の早夕食。きゅうりとバナナが添えられている。幸せな時間はマンゴージュースで締めた(計20CUP=約90円)。僕のように北からアメリカ大陸を南下して来ると、この赤飯のような豆ごはんに出会うのはこの島が最初の場所になるのではないかと思う。どこかの大陸でも食べていたのでとても懐かしく感じた。ちなみに、とうもろこしやキャッサバなどの粉を水で練ってこねておもち状にした、その大陸で広く食されている料理を島滞在中探していたのだけれど、少なくとも僕自身がそれを目にする機会はなかった。キューバでなら簡単に出会えるだろうと思っていたのだけれど。

congrí

公園のベンチに座っていると、隣に一人の黒人系のおじさんが座った。挨拶すると、自然と会話が始まる。ミュージシャンだというアルベルトさん。和んだところで、彼のルーツを訊ねてみた。つまり、父方母方の遠い先祖はどこの土地から島にやって来たか、知っていますかと訊ねてみた。「アフリカだけれども、どのあたりとかは全くわからんよ」嫌がることなく、アルベルトさんは気さくにそう答えてくれた。

キューバにいる黒人系の人々は、16世紀から19世紀にかけて奴隷としてアフリカ西部や中央部を中心に集められ、運ばれてきた人々の子孫だ。彼のように、そして僕自身もそうであるように、大半の人々は自分の遠いご先祖様の出生地など知らないだろうと思っていたけれど、同じようにして訊ねて答えてくれた人々の中にはナイジェリアだ、コンゴだ、中にはエチオピアだなんて現在そう呼ばれる地名で、先祖の出生地を挙げてくれた人もいた。先祖の出自がはっきりしているのは、奴隷貿易終焉期に連れてこられたためかもしれない。いずれにしても彼らに共通しているのは、アフリカになど行ったこともなければ、ましてやこの島からだって一度も出たことがなかろうということだ。

historia

「昔、アフリカを旅したとき、陽気な人々から日々の生きるエネルギーをいつも頂いていました。あの大陸には思い出がたくさんあります。キューバに今日やってきて、島の人々に会って、この島とアフリカとの繋がりを感じることができてとてもうれしいのです。」というようなことを、片言で一生懸命伝えた。無言のまま、ケースからギターを取り出したアルベルトさんは、軽やかな指使いで弦をはじき始めた。

気持ちが伝わったというのがそのメロディーと彼の表情から感じ取れて、僕はとても晴れやかな気持ちになった。’’Bienvenido a Cuba!” (ようこそキューバへ) 最後にそう言って立ち上がると、アルベルトさんは旧市街の雑踏の中へと消えていった。

albert

僕にとってのキューバでの時間は、こんなふうにして主にアフリカとの繋がり探しだった。長い旅ではその土地を訪れたい明確な理由なんてのは薄れがちだと思うけれど、今回はそれがはっきりしていた。黒人の血を濃く持つ人々は奴隷として連れてこられた歴史に気安く触れられたくないという心理がある一方で、遠いアフリカの地に対する望郷の念を強く持っていて、自分の体に流れるアフリカ人の血に誇りを持っている気がする。だから大陸の話をすると耳を傾けてくれるんだと思う。

pescador

7月29日、不要な荷物はカンクンの宿に預けてきたため、いつもよりうんと軽い荷物でハバナ出発。町中心部から出たあと、まずはスタンドで調理用にガソリンを購入。1リットルが1.2CUC(当時のレートで約133円)。キューバの安い物価を考えるととても高い。キューバはベネズエラから原油を輸入している。後にカマグエイ州にあるソラという町にあるカフェテリアで、あまりの乾きに1杯2CUP(約9円)のグアバジュースを「オトロ、オトロ(もう一杯)」と10杯近く一気に飲み干したとき、呆れて笑っていた従業員のおじさんが自宅に招いてくれたことがあった。マリオさんというそのおじさんの奥さんは、その時ベネズエラにおり、看護婦として2年間のボランティア活動に参加しているところだった。反米政策を取った故チャベス大統領が大統領に赴任して以来、キューバとベネズエラの友好関係は始まり、医療、教育、文化、スポーツなどの分野でキューバから医師や指導者の無償派遣が行われており、数万人だかのボランティアがこうしている今もベネズエラで活動しているのだそうだ。ただ、同時にスパイも混じって派遣されており、ベネズエラの人々の表現の自由を抑圧している、とも後にコロンビアで会ったベネズエラ人難民から聞いた。しかし、ここで購入した僕とベネズエラとの初めての接点となったガソリンを、このわずか3日後、使い切る前に盗まれることになろうとは夢にも思わなかった。

fidel y chavez

el puerto de cienfuego

ヤシの木などが生い茂り、緑色をした景色が続く。その中をいびつな形をした車輪を転がしながら馬車が駆けていく。7、8月は島がもっとも熱を帯びる時期。北東から吹く貿易風が暑さを幾らか和らげてくれるんだけれど、やっぱりここも暑いもんは暑いし、湿度が高いので余計暑い。村々では、揺り椅子に腰掛け、家の前の日陰でくつろぐ人々の姿。面白いものでほんの200~300km海を隔てただけなのに、ユカタン半島やその後中米各国でどこにでも見られたハンモックを、この島では僕は一度も見かけなかったと思う。野球を楽しむちびっこたちの髪型は坊主頭か、流行っているのか、モヒカンでトップは茶髪といった風。道脇ではバナナや鎖のように連なった玉ねぎやにんにくが売られている。湿地帯には白い花が水面に顔を出し、馬が水浴びをしている。その水辺や道上をカニが横切っていく。自分の存在に気づくと慌てて横走りし始め、踏んでくれとばかりに走行ルート上に飛び出してくるものだから、不本意にも数匹のカニをタイヤで踏みつぶしてしまった。カニたちにはこの場をお借りしてお詫び申し上げたい。

palmas

cebollas

cangrejo

走行初日の夜、ガレージにテントを張らせてもらえ、夕食のテーブルにまで招いてくれたマヤべケ州のご夫妻は、「ここはお前の家だからいつでも戻ってきなさい」と翌朝別れ際にうれしい言葉をかけてくれた。その後、それがキューバ人の口癖だと分かるまでに時間はかからなかった。島滞在中、家に招いてくれた人も、敷地内でテントを張らせてくれた人も、自転車で一緒に走っていた人と家の前で別れるときも、ただ家の前で簡単な会話をして去るときも、みながみなそういってくれた。

gracias por una noche con la paz

さて、パスポートにはっきりと読めるように押し直してもらった入国スタンプの日付は7月26日。単に航空券の値段が最安だったため選んだ日だったのだけれど、なんとそれがキューバの革命記念日に当たるという偶然が重なったことで、革命にすぐ興味をもたされ、この国が歩んできた歴史を紐解きながらの旅にもなった。

guarapo

1953年のその日、当時弁護士だったフィデル・カストロが同志たちと親米政権転覆を図って軍の兵舎を銃撃し、失敗したところから革命は始まる。数年後、政権転覆を果たしたカストロやチェ・ゲバラたちは、米の経済制裁を受けながらも、富を分配する皆平等の国づくりを目指す。貧しくても、多くの経済難民を出しても、みなが仕事を持ち、教育と医療が無料で受けられる国を作ってきた。島を走れば、至るところに革命と社会主義を肯定するプロパガンダが見られる。

Cuartel Moncada

socialistas

その革命への理解を深めるため、革命の始まりとされるその1953年から3年後、亡命先のメキシコから船で上陸したカストロと他の革命戦士たちが、ゲリラ戦に向けて本拠を構えた島東部にあるマエストラ山脈にも足を踏み入れた。生い茂る木々が太陽光を遮り、ジャングルは非常にぬかるんでいた。戦士たちが通ったとされる山への道や潜んでいた小屋、戦いが行われた地などが一帯に点在しており、それらは現在どれも史跡となっている。

del camino al pico turquino

serpiente

カリブ海に浮かぶキューバ島にはきれいなビーチがたくさんあるわけなんだけれども、そして、それ目当てで来る人も多いのだと思うのだけれども、今振り返ってみると、サドルの上から眺めるだけで僕は結局一度もビーチで泳ぐことなく島を去ってしまった。この島での水の思い出といえば、この革命の源地であるマエストラ山脈麓の川で、小さなザリガニたちにチクチク挟まれながら素っ裸で体を洗ったくらいだ。炎天下が去った夕暮れときに、山からの冷たい水で洗い流す汗。きっと戦士たちにとっても過酷なゲリラ戦の中での束の間の楽しみだったに違いない。

camilo y fidel

hasta la victoria siempre

「食べるものがなかった。当時母親が国営のレストランで働いていたため、そこでなんとか食糧を手に入れることができたけれど、購入口がない人々には本当にものがなかった」革命に伴う米の経済封鎖により60年代から続く万年の物資不足。中でも最大の貿易相手だったソ連崩壊による90年代の経済危機の状況は酷いものだったと、グランマ州のニケロの町の食堂で同席だった「イチローイチバン」を連呼する野球好きのおじさんは思い出すように話してくれた。

jugando béisbol

beisbol

多くの人が居残ったけれど、一方で多くの人がギリギリを越えた生活の中、国を去ることを選んだ。革命初期に去った人はカストロの政策に反対の人々だったろうけれど、時間が経ってから出た人はそんな状況になってまでも、どこかでカストロを支持しながらの、生きるために止むを得ずとった行動だったのではなかろうか、何も知らない僕にそう推測させるほどカストロのことをよくいう人は多い。表現の自由があるわけではないので、人から聞くことすべてが本音ではないし(なかには本音で不満を口にする人もいたけれども)、アメリカ軍と亡命キューバ人の混成軍によるヒロン湾での侵攻を除いて、国内で反政府による大きな武力行使は起きていない(?)ようだし、よく聞く単なる独裁者とは異なり、フィデル・カストロという人は本気で国の未来を考えて行動する、人々から大きな支持を受けたリーダーであったらしいということ、賄賂なしでは何も事が進まないよくある経済貧困国と違い、汚いどろどろとした感じがキューバには感じられないことは、この島に来て、僕のように浅くでも島を走ってみれば、なんとなく感じられるのではないかと思う。

equipo fidel

el jefe

黒人奴隷の労働に支えられて、キューバの重要産業であり続けてきた砂糖生産。一面のさとうきび畑が両脇に広がる道を走っていると、どこか見覚えのある場面に行き当たった。畑横にフラットハンドルの青い自転車を止め、農家のおじさんがナタで刈ってくれたさとうきびを夢中でしゃぶっている青年。同じ大島でも、12年前の夏、貴重な連休を使って訪れた奄美の大島だった。大島のお隣に浮かぶ喜界島では、偶然前を通った小さな製糖工場で、親切なお兄さんが砂糖作りを見学させてくれた。お兄さんは、体に優しい黒糖と黒糖蜜をもたせてくれ、姿を変えたそのさとうきびも僕は夢中で舐めた。

camino de caña

en el campo de caña

campo de caña

断片的に蘇ってくる人生初のさとうきび体験の地となった島での時間を思い出しながら、キューバでも製糖工場を訪れてみたくなり、ラスツナス州にあるアマンシオという町を通ったとき、裏にある工場を訪ねてみた。でも、主な収穫期は12月から3月までだそうで、収穫期を除いてはどの工場も稼働しておらず残念ながら見学は叶わなかった。僕の旅ではこの後、ニカラグア以南で収穫期を迎え、コスタリカはカルタゴ州にある、さとうきび畑がやはり視界全体に広がったアティロという村に差し掛かったときにも、ふいに現れた製糖工場を訪れた。しかし、なにやら機械の不具合とかで、またしても工場は稼働していなかった。肩を落としていたとき、ナタで皮をきれいに刈り取って、僕の前にサッとさとうきびを差し出してくれたおじさんがいた。手を伸ばした先には、もうひとり懐かしい顔のおじさんがいて優しい表情をこちらに向けていた。

Fábrica de azúcar

campo de caña en costarica

オフシーズンとはいっても収穫は一年中あるので、グアラポ(さとうきびジュース)であるならば、キューバ各地で飲むことができた。搾りたての冷え冷えを空のボトルに詰めてもらい、タオルで包んでから陽に差されないように持ち運び、体が太陽にヘロヘロにされたところでゴクっゴクっと喉を鳴らす。そして再び太陽にヘロヘロにされるまで走る。これぞキューバの正しい走り方に違いなかった。

guarapera

guarapo

「こいつが恋しくてなぁ」グアラペラの前で話したアメリカ東部ニュージャージー州在住のおじさんは、1980年代にアメリカに亡命した。2009年、オバマ大統領が就任すると、キューバに親族がいるアメリカ人のキューバへの渡航や送金の制限が緩和された。フロリダ州のマイアミにはキューバ革命後、政治亡命したキューバ人の大きなコミュニティがあり、彼らやその家族らの出入りで、島では“MIAMI”と書かれた帽子やTシャツをよく目にする。このおじさんは、家族や友人たちに会うために6ヵ月置きに帰郷しているといっていたけれど、たぶんそれは本音であっても二の次で、実際は主にグアラポが飲みたいがために帰郷しているのではないかと僕に疑わせるほどグアラポはうまいし、それを飲んでるおじさんの目はギラギラとしていた。このキューバの砂糖生産も、ソ連崩壊後、砂糖の国際価格の低下もあいまって、設備への投資などの面で劣るキューバでは競争力のある値段で砂糖が生産できず、昔と比べ今では大分下火となっているのだそうだ。

otro otro

más caña

近年、自営業が認められるようになり、アメリカとも接近した現在のキューバには、最低限生活に必要なものならなんでもあるようにも自分には見えたけれど、種類がないし、また値段も近隣国と比べて高い。キューバ走行序盤で盗まれた自転車バッグには下着も入ってたので、新しくパンツを購入。後に泊まった民宿の主人が同じものを履いていたのをはじめ、村々を抜けていく際に注意してみると、同じパンツの色違いが庭やベランダで干されているのを何度も見た。バイクのヘルメにしたって、みんな同じものを被っている。

前出のアマンシオの町の数キロ前にあった、5家族のみが暮らす集落にある牧草地に、テントを張らせてもらった日の朝のことをよく覚えている。7歳のオスネイディは目の前の一重まぶたの東洋人に興味津々。朝歯磨きしてると「そんな色の歯磨き粉見たことない」と牛から目を離して、歯磨き粉を見つめ羨ましそうな表情をする。メキシコで購入したなんてことない白赤青の三色ラインの歯磨き粉。Bodegaと呼ばれるこの島の配給所で売っているのは、僕もこのあと購入する、8ペソ(約35円)の白い単色の歯磨き粉で、たいていの人々はこれを使っているものと思われる。「気に入ったなら、これは君のものだよ」と彼女に三色ラインのチューブを差し出す。「でも、これ使うとおじさんみたく目が細い人間になっちゃうよ」と余計なことをいうと「嫌だ」と言われてしまった。

cerca de amancio

バラコアでお世話になった民宿(カサ・パルティクラル)のおばちゃんに、配給について少し教えてもらえた。キューバの人々は年に一度新年前に、政府から配給手帳を受け取る。それに月毎に何をどれだけ配給所で購入したかを記入していく。この手帳提示で、食料品が通常よりも低価格で購入できるようだ。月に一人がその低価格で購入できる量は決まっており、米なら5ポンド(約2.25kg)、豆なら4オンス(約112g ※少ないので聞き間違えたかもしれない)、砂糖は4ポンド(約1.8kg)、油は1/2ポンド(約225ml)までといった具合。例を挙げると、配給所での通常の米の価格はこのとき1ポンド(約0.45kg)=4CUP(18円)、つまり、5ポンド(約2.25kg)=20CUP(約90円)だったのだけれど、手帳を提示すれば、一人につき月5ポンドまでなら6CUP(約27円)で購入できるということだ。夫婦なら二人で10ポンドまでが12CUPで購入可能ということになる。足りない分は、通常価格で購入することになるというわけだ。配給所はたくさんあるけれど、手帳で低価格で購入できるのは、自分が住むエリアにある配給所のみとなるようだ。配給所には食料品のほかにも、歯磨き粉や石鹸、テレビなども売られており、それらの物品に対しては手帳価格はなく、また購入量制限もなく、さらには僕のような異国人でも購入できるという仕組みだ。

bodega

lista de cosas venden en un bodega

ピザや、パンにハム、チーズ、卵焼き、マヨエーズ、コロッケ、揚げ魚、グアバジャムなどを挟んだものがどこにでも売られ、どんな田舎を走っていても、日に何度かはそれらを購入する機会があった。食堂に売店、路上で物を売る人々がこうして年々増えているため、予想していたような苦労は実際なかったけれど、村ではそんなに野菜売りなどを見ないし、どこの村でもある配給所では、生活必需品である食糧に関しては地元の人々しか購入できないので、’’自炊をしながらのキャンプ旅’’をするためには、買える場所でしっかり準備しておく必要がある。

pizza cubana

pan con minuta(pescado frito) muy delisioso

fruteria

調理道具一式も早々に盗まれてしまった僕は、蜂蜜を携帯し、村のパン屋でパンを買い、手押し車や路脇に並べられたアボガドを見つけては、機会を逃さないよう、早めに買って晩に備える、というようなスタイルに毎晩なってしまったのはとても残念だった。

carta

plátanos

馬車やカウボーイたちが行き交う島の道。そういえば、スペインからアメリカ大陸に馬が最初にもたらされた地はキューバなんだとか。米モンタナ州にあるクロウ先住民居留地を訪れたときそのように学んでいた。ここから徐々に広がって、やがてアメリカ先住民にも運搬用や狩り用にと採り入れられていったという流れだ。

Caballo

carro de caballo

馬は30年40年生きるというから驚く。田舎に住むキューバ人は、3歳4歳にもなれば馬の世話を手伝い、馬に乗り操り始めるのだという。だから島には馬具を売る店がどこにである。馬力ってやつぁほんとすごい。乗客を乗せ、荷物をたくさん載せていても、上りでは徐々に間をつめられ簡単に抜かされてしまう。その強靭な脚で踏ませれば穀物の脱穀にも便利だし、メキシコではメスカル(蒸留酒)をつくるのに、この馬力を用いて大きな石器を動かし、熱して柔らかくしたリュウゼツランの茎部を発酵前にすり潰していた。

carro de caballo

そして、中国産の人民チャリも今たくさん島で走っているので、馬車とチャリのポンチェラ (パンク修理店) がそこら中に見られる。ここではパンクシールは貴重でなかなか手に入らない事情から、パンクシールでの修理 (フリア方式) はとても高くつくので、古いチューブ片を熱で押し付けて穴を塞ぐカリエンテ方式でパンクを修理する。キューバに持ち込んだ持参のパンクシールも糊も盗まれたので、探し回ってなんとかガレージで売ってもらったけれど、分けてもらった糊が入った容器の密閉性が不完全であったため、いざパンクを直そうとすると、乾燥していて結局使いものにならなかった。行きついた結論は、キューバではパンクシールを探すよりも、たとえ辺境でも、最寄りのポンチェラまでがんばって押して行って、カリエンテ方式で穴をふさいでもらうのがよっぽど賢いということ。修理代は一穴につき3CUP(13円)が地元人の相場だ。

ponchera

ponchera

ponchera

島東部には、黒人系の人々が多いのに気づく。グランマ州に入るとマエストラ山脈を背景に水田が広がった。さとうきび畑と水田のあとに藁葺き屋根の家々が点々と現れる長閑な景色が続いた。この辺は国内ではよく知られた米の産地のようで、ベトナムや中国からの移民の影響もあって、生産性の高い米作りが行われているのだとか。キューバには日系人もいるので同じようにして居住区で米作りにおいての交友があるのかもしれない。チノチノと言われるなか、ひとりにだけ「ホーチミン!」と言われ、思わず吹き出してしまった。田舎ではチノチノ攻撃にも悪気は感じられないことが多く受け答える気になれる。人々は東洋人がチノ(またはチナ)と意味もなく呼ばれることが不快だということを知らない。これは世界共通。だから彼ら彼女らはこちらが不快に感じる理由がわからないので余計タチが悪い。当の中国人だって良い気持ちじゃないだろう。この話では以前メキシコで同じ問題を共有する韓国人のおじさんと深く話したことがあった。キューバは「最っ低」との印象を持って帰ることになったおじさんは、よほどのチノチノ攻撃を浴び、感情に素直に反応してしまったようだ。

campo de arroz

arroz

グアンタナモ州東部は急な傾斜の山道となり、海抜から約600mまで一気に上がる。第二カーブに差し掛かったとき、擦れ違った馬に乗ったおじいさんから「Joven, ve suavecito(若いの、力んじゃいかんぞ)」とボソっと教えを頂き、「スアヴェスィト, スアヴェスィト, スアヴェスィト…」と唱えながらゆっくり上って行った。その先にはちょうど収穫の始まったコーヒー畑広がる風景のご褒美が待っていた。このあとの中米諸国の旅では、コスタリカ、グアテマラを筆頭にして、どえらい傾斜の山道にしごかれていくのだけれど、いつだって僕はおじさんの教えを唱えながら、力まずに、少しずつ、這い上がっていった。

ruta en la costa de santiago

El techo para mi carpita tambien fue robado asi que..

cafe cubano en guantanamo

8月29日、ようやくキューバ島最東端のマイシに到達。灯台の下でカリブ海からの風に吹かれながら、前の晩テント泊させてもらった教会の牧師さんから頂いた顔サイズのどでかマンゴーを周りにいた人々と一緒に食べていた。横には灯台併設の住居があり、管理人のおばちゃんが住んでいる。24時間勤務2日休みのシフトを3人で回しているそう。暗闇の中に灯台の明かりを灯し、それを毎朝6時に消灯するのもおばちゃんの大事な仕事だ。

al faro de maisi

おばちゃんは、毎年8月から9月にかけての2ヵ月間だけ、お隣のハイチから海を渡ってやってくるゴロンドリーナ (つばめ) の話をしてくれた。マイシの海岸近くにある木に生る実を目当てに、毎夏やってくるそうで、食べ終わると再びハイチへと戻っていくのだそうだ。彼らを銃で撃って獲って食べると、「むっちゃうまいんやで」という。往きは貿易風に乗ってこれるけど、腹を満たした帰路は、風に押されてさぞ大変だろうなと灯台からハイチの方角を眺めながら思った。注意してみれば、黒い体をしたたくさんのゴロンドリーナたちが、居心地良さそうに上空で風に舞って遊んでいる。夏の2ヵ月間だけやってくるという鳥たちに、僕は自然と自分を重ねていた。

vista de la mar hacia Haiti

polimita

西に進路を変えると、それまで敵対してきた風も態度を急変させ友好的になる。この頼もしい味方が、ぐんぐん後ろから背中を押してくれるようになった。この風のおかげで余った時間は後でサンタクララとハバナでの野球観戦に充てさせてもらった。サンティアゴにいたとき、すでにモンカダスタジアムにも足を運んでいた。道中、キューバの英雄オレステス・キンデランが地元サンティアゴの監督だか打撃コーチだかをしていると聞いたものだからいかない理由などなかった。スタジアムで隣に座った息子連れのおじさんからそれは古い情報だと聞かされたときにはがっかりしたけれど、一塁側ダッグアウト裏付近にある彼の写真パネルを前にしたときの僕の顔は野球少年に戻っていたのではないかと思う。人々を真似て、「プスー」と口で鳴らして売り子を呼び、サンドイッチを食べながら観戦。この人の注意の引き方なんてアフリカそのもの。試合はホームランが飛び交う打撃戦になり見応えのあるゲームになった。でも、バットにヘルメット、グローブに至るまで道具を投げて扱ってるのが散見され、そっちが妙に気になってしまった。ゲーム後半、お父さんが掴んだファウルボールを手にした息子の”キンデランくん”はとてもうれしそうで、なんだか僕までうれしい気持ちになった。キンデランくんの本当の名前は今となっては知る由もないわけだけれども、英雄の名を受け継いだからには、大人のマネはせず道具を大切にする選手になってもらいたいと思う。

estadio de moncada

Orestes Kindelán

9月3日、鍬に乗っかり牛に引かせて田を耕す人、鎌で草刈りしてる人々、馬車で屋根用のヤシの木の葉を運ぶ人、何かを包むのかその茎部を干してる人、朝方に流れる風景の中でひとつだけいつもと違ったのは、ちびっこたちの登校姿だった。2ヵ月近くに渡る夏休みが終わり、新学年初めての登校日となったこの日、ちびっこたちが制服に身を包んで、親や家族からプレゼントされた真新しい靴や鞄で登校する姿、子どもたちをバス停で見送るママたちの姿がみられた。

campo

palma

教育が無料で受けられ、医療費も掛からないキューバという国。たとえその日暮らしのような給料でも、公務員が多いため失業者が少ない。薬が高いとかはあっても、金銭面で将来の家族の健康について大きな不安をもつ必要はないのだろうし、子どもの教育費について頭を悩ます必要もない。教育、医療にアクセスできない人々が世界にたくさんいるなかで、経済的にはすこぶる貧しい生活を強いられながらも、こんなふうにして生活できる国は他に世界にないのではないだろうか。

また、安定した電気供給で、保存が効くため、どこかの大陸のように大量のマンゴーが道端に落ちたまま腐ってたりもしない。人々はみんな読み書きができ、どの村にも診療所がある。その上、老人ホームだってある。強い繋がりがあるといっても、僕が過去に訪れたときにこの目に映ったアフリカとはずいぶん事情が異っているように見えた。

che

社会主義というと、持つ者と持たない者が出てこない平等な社会といったものが連想されるけれど、この国では社会階級という面でもそれが実現されているようだ。かつて黒人奴隷たちが白人に使われていたこの島には、奴隷制度撤廃以来、これも革命による平等精神によるものなのか、人種間差別がうまいこと消え失せ、本来当たり前なことなのにこの世界ではなかなか感じることができない、気持ち良い雰囲気が一見広がっている。白だから茶だから黒だから黄だから赤だから云々と、この時代になってもなお、露骨にそんなことをいっている人々が多くいるどこかの国とは違う。

bicicleta

赤は先住民のことを指す。この島にもコロンブスがやってくる前に、コロンビアやベネズエラから船でカリブの島々を渡って辿り着き、定住していたタイノと呼ばれる先住民がいて、例の如くスペイン人に全滅させられたといわれている。でも、拝観はしなかったけれど東部のバラコアにある考古学博物館の受付のおじさん曰く、グアンタナモの町の周辺にはタイノの生き残りがいて、約80人で構成される小さなコミュニティを形成しており、外部との血の交わりを断ちながら他の島民と何ら変わらない暮らしをしているのだとか。男性の平均は155cm, 女性は145cmくらいの小柄な人々らしい。1492年まで、彼らは漁や狩り農耕をして静かに暮らしていたのではないかと思われる。

lagarto

ranita

fruta bomba (papaya)

ハバナ到着前夜。テントを張った場所に蚊がいなかったので、アボガドパンを食べた後、思い出したようにフロントバッグに保管していた葉巻を取り出して、マッチを擦って火を点けた。肺には入れず、半月を見ながらゆっくり大きく吹かした。挟んだ指の先に居座る太いどっしりとした存在を確かめながら、思い出したくないことも含め、この2ヵ月間にこの島で起きたひとつひとつのシーンを振り返った。マイシのゴロンドリーナたちはどうしているだろう。腹を満たした彼らも、腹を空かしたおばちゃんたちに食べられていなければ、そろそろ風に逆ってキューバを発つ頃だ。気持ちが安らいでいくにつれ、次第に虫たちの鳴き声が大きくなっていく。すべてを灰にするのに1時間半以上もかかった。10日ほど前に、プエルトパドレという町で葉巻工場の外から窓越しに作業を見ていたとき、手慣れた動きで葉を巻いていた従業員のおじさんがくれた1本1CUPの国内消費用。輸出用や観光客向けに販売されるコイーバなどの有名ブランドの葉巻の葉の端と端をくっつけるのには、カナダ産のメープルシロップが使われているようなんだけれども、いうまでもなく、島民用の葉巻からはそれらしき甘い香りなど一切しなかった。

tabacos

tabaco cubano

amanece bien

翌夕、ハバナの革命広場で3,013kmのキューバ走行を締めくくった。自転車輪行用のダンボールを預かってもらっていた民宿の家族と再会。出発時自転車に備わっていたアフリカの埃をも吸い込んできた古いバックが、キューバ人の多くが所有しているプラスチック製の真新しい買い物バッグに変わったことに気付く唯一の人たちだ。

盗難事件は大変ショックな体験であったけれど、間違いなく僕にとってこれ以上にない良い教訓となった。そして、その出来事は、キューバ島民買い物バッグと、このあとカンクンの宿にこもり縫い合わせて作る自作バッグとの融合による新たなバッグを生み出し、ひとつ残された10年モノとの共演を実現させ、それらをまとった控えめにいっても世界で一番かっちょいい自転車をこの世に生み出すこととなった。振り返れば、得たものばかりで、失ったものなど何一つもなかったのだと、”キューバ危機”を乗り越え、時間が経った今そう思える。

java cubana

mi mochila nueva

9月21日正午、イシルさんは1951年製のシボレーで約束通り滞在していた宿に迎えに来てくれた。前の晩町で会い、通常のタクシーと運賃が同じだったので空港への送りをお願いした彼は、あらゆる格闘技を修得している鉄人。格闘技の指導者として活動しているそうなんだけれど、キューバではなぜかこのスキルで仕事をするのは今も許されないそうで、指導はすべてボランティアで行い、その傍らでタクシードライバーをして生計を立てている。キューバではこの観光客相手の商売が何よりも金になる。個人所有のタクシードライバーとなればかなりの高給取りとなるのだろう。所有のシボレーは売れば最低でも30,000USDにはなるという。しょっちゅう車は壊れるけど、もちろんパーツなど手に入らないので自力で直す。

彼は無免です

解体した自転車を積めたダンボール箱をなんとかシボレーの後部座席に突っ込み、空港へと向かう。車内にはイシルさんの息子がかけてくれたソンが流れ、それをバッグに、窓越しに見慣れたクラシックカーと自転車タクシーが走るハバナの街が過ぎていった。

車内にいては気にならないけれど、島走行では毎日のように、クラシックカーが大量の排気ガスをわざわざ僕の前で吐き出して走り過ぎていった。そんなキューバの路上風景はまさに今なお続く経済制裁に屈せず、大国と戦い続けてきた半世紀以上にも及ぶ時間を象徴するものであり、アメリカにNoと言えない島で、物が溢れる時代に生まれ育った僕には、ただただ眩しく格好良く映ってしまうのだった。

camino sobre el caribe en Guantanamo

havana

空港では、今日もお姉さんたちがミニスカ網タイツをパッツパツさせている。そんな当たり前のことには、もういちいち驚くことはない。この島にある”表現の自由”であり、似合っているのだからグラシアス以外何もいうことはない。おしゃれな彼女らは純粋に自分たちを魅せることがとてもお上手。これもきっとアフリカから海を渡ってきたものなのではないかと思う。

カリブ海上空、窓に額を押しつけながら、雲海に覗く海に目を遣る中国人の肌は、夏の太陽にこんがり焼けてムラート色をしている。その海に浮かぶ大島が歩んできた険しい道は異質で、その歩みそのものが世界遺産であるかのように人々を惹きつけて止まない。尽きることない島への興味を満たしに、サルサを一緒に踊ってくれるムラータさんを探しに、もう一度いつか僕はこの島に戻ってくるような気がする。きっとまた、ハイチからゴロンドリーナがやってくる暑い暑い季節に。

Kindelán futuro

el Caribe






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@Arequipa/Peru



Leaving the North and Central America continent, pedaled 35,000km spending 2 years and 10 months, with much good memory and a bit of bitter memory too, Now I have reached Colombia. Except for some worry about the security problem, personally I didn’t have much previous knowledge of the Central part of America, however, once actually in the places, easily those turned out to be my favorite ones. it was so hard to go ahead as planned through this attractive latin world. Yes, this is pretty much an usual matter of my trip..:)

For having come to south and south little by little while having similar conversation with people with similar questions on myself and my trip in different places , I dare to say by now the language barrier once used to be huge for me when in Mexico, have been getting gradually smaller at least in very basic communication with people, which must be a reward of this bicycle trip with quite a slow pace and much chance of meetings. Now I’m eager to have more conversation with them on other subjects. I think there is materially many unnecessary things in our daily life, but as for our experience, there is maybe no wasted moment there to be closer to what we want to be.

Because of sights of many refugees from Venezuela under the political and economical crisis in Cartagena, a historical beautiful coast town in north Colombia and the landing point of a sailing boat trip I had had from Panama, I headed for border area with Venezuela via roads in interior regions not to visit but only to feel even a bit of the country that is currently unfortunately no go destination for traveler. I saw many groups of refugees coming in and keeping on their way toward Ecuador or Peru or even further to Chile where their family or friends, who immigrated earlier, wait for their arrival. So we go on the same direction going over the high mountains. The landscape is just magnificent, some are just like I had imagine but the others are totally different from my imagination. I’m going south slowly as they go step by step through the mountains I have long dreamed of pedaling in.

Greeting to all my friends from the Colombian Andes, the gate of the world longest mountain range for me

※posted on facebook middle May 2019

cartagena



どうも毎度おひさしぶりです。

2年10カ月を過ごした思い出深い北中米の旅(35,333km)を終え、コロンビアに入っています。中米は、あまり芳しくないといわれる治安に関して以外に、個人的にあまり前知識がないところでしたが、入ってしまえばどこもかしこもメインディッシュで居心地良く、やっとこさ抜け出せました。

各地で人々に同じことを聞かれ同じ話をしながら、無駄に長く過ごしてきた分、言葉の問題に関して簡単な会話の応答程度であるならば、憶することなく南米の旅に突入できているのは、自転車でちびちびと進んできたご褒美なんだと思います。このご褒美を使わせてもらって南米をより楽しんでしまおうと企んでいるわけです。不必要だと思う物事がたくさんある世の中ですが、殊、体験に関していえば、無駄なことなどひとつもないのかもしれません。

パナマからのセーリングボートの入港地となったコロンビア北部沿岸にある歴史あるカルタヘナの町からは、そこでの難民との出会いをきっかけに、政治・経済混乱でハイパーインフレ化のベネズエラを訪れずとも少しでも身近に感じるため、内陸の道を通ってベネズエラ国境へと向かいました。同時にエリアは、僕にとって南米を縦走する世界最長の山脈、全長7000kmにも及ぶアンデス山脈への入り口ともなりました。長年思い続けてきた場所にいるというのは、毎度ながら感慨深いものがあります。想像と一致する景色、まったく頭になかった景色のなかで、目にする数えきれないほどの難民たちの移動。一日一日、大小の発見をもらいながら、彼らと同じように僕も少しずつ南へ南へと進んでいきます。

長くなりましたが、ということで元気でやっています。

※2019年5月中旬 facebook投稿挨拶文より

cuesta






sombreros mexicanos

cowboys

cuba

comida beliceña

tucán

lago atitlan

amiga hondureña

rana

volcán concepción, nicaragua

papaya

amamos

pereza

san blas






2019年3月12日~4月28日

なんの接点もなかったベネズエラという場所のことを人から聞いたりするようになり、少しずつ考え始めるようになったのは、キューバを訪れたときだった。そして僕にとってのコロンビア最初の町であるカルタヘナに来て、その存在はぐんと身近になった。

llegé a cartagena

滞在先の宿には8カ月前に首都カラカスから移住してきた若い女性が掃除係として働いていた。アメリカ人経営の日本食レストランで働いていたという旦那さんと4歳と2歳の息子たちと一緒にバスでカリブ海側のマイカオ(Maicao)の国境を越えてやってきた。首都カラカスにいる両親に送金していて両親はそれで生きている。滞在中よく通ったすぐ近くのスーパーでもベネズエラ人の青年が働いていた。街を歩けば、ベネズエラ人の親子があちこちで小銭を乞うている姿。これはカルタヘナに限ったことではなく、この後訪れるその他のコロンビアの町のどれもが、ベネズエラからの難民で溢れていた。ベネズエラ第二都市石油生産の拠点マラカイボから、住処と仕事を求め国境を越えてやってきたばかりのダヴィド(David)と、カルタヘナの宿で出会ったときの僕はまだ、そこまでの''異常''事態になっていようとは気づいていなかった。

cartagena

宿の屋上で下階のキッチンで作った夕食をとっていると、一人の男が上がってきて、外の風景を見ながら携帯に耳を当て話し始めた。どうやらカルタヘナへの無事の到着連絡を、家族にしているようだ。新しい環境に興奮しているのが男の弾んだ声から伝わってきた。空港近くの宿で、彼はうれしそうに飛行機が至近距離で着陸する様子を携帯電話で動画に撮り、家族になんとか送ろうとしていた。

ダヴィドはマラカイボでやっていたように、カルタヘナの中心部で雑貨や携帯電話販売の商売をしたいという。妻子を残してきており、生活が落ち着いたらこちらに呼んで一緒に暮らすつもりだ。中米にいたときに、南米から上がってきた旅行者たちにべネズエラのことは簡単に聞く機会があったので、この時点でもう行くつもりはなかったけれど、当初はベネズエラを走ってみたいと思っていたことを彼に伝えた。そして、地図を片手にこの機会にベネズエラのことを聞きたくていろいろと彼に訊ねた。

mi mapa de venezuela

もう20年前からベネズエラ国内の経済の低迷は始まっているそうで、国際原油価格の下落に端を発する近年のハイパーインフレーションで通貨ボリバルは日に日に価値を失っていき、給料は変わらないので、いくら積んでもパンすら買えない状況になっている。20年前というと貧困層の生活レベル向上に取り組む政策をとったチャベス大統領が権力の座についたときと重なる。チャベス大統領時代にキューバに習い、教育費に加え、医療費を無料にしたベネズエラ。だけれども、現状はといえば、経済混乱で医師が薬をすべて懐に入れてしまったりなんだりで、薬が何もない状態だとか。チャベス大統領時代は決して楽な時代ではなかったけれど、生活は苦しくとも、国民は生きていくことはできた。でも2013年3月5日のチャベス大統領の死から、状況は悪化。以前はたくさんいた中国人商人たちも経済混乱で店を閉めて、大半は国を去っていったそうだ。

chavez

hermanas

隣国はベネズエラを支援したい気持ちはあっても裏でベネズエラに自由主義を導入させたいアメリカの政治的陰謀が働いており、なかなかそうはできないのだとか。アメリカがベネズエラを取り込みたいのは、原油を始めとした金、銀、ウラニウム, コバルトなどの豊富な天然資源の利権狙い。原油をアラブから輸入するには3週間は掛かるけれど、ベネズエラからだと1週間弱もあれば、フロリダに輸送できるそうだ。現在の主なこれらの資源の輸出先はロシアや中国で、アメリカはその流れを阻止したい様子。ベネズエラの民衆は、経済の立て直しを考えると、嫌いなアメリカに接近する方が良いと考えている人が多いのだとか。

bolivares

bolivares

翌々日の朝、彼はもういなかった。宿を発つ前に、ベネズエラ通貨のボリバル紙幣を僕に渡してくれるようにと、受付けに預けていったそうで、200、100ボリバル紙幣が2枚ずつと、50ボリバル紙幣が1枚僕の手元にきた。前の晩に一緒に話したときに見せてくれたものだった。正直、何ひとつものが買えない額なんだろう。いや、それでも、ガソリンならこれでもいくらか買えるのかもしれない。なんせ世界一ガソリンが安い国だと聞いているから。いずれにしても、僕にとっては宝物がまた一つ増えた想いだった。実家のどこかにあるであろうジンバブエドル札と並べて、いつかニンマリさせて頂こうと思う。ちなみに、ボリバルというのは、スペイン支配からの南米独立運動の指導者で、ベネズエラの首都カラカス生まれの英雄シモン・ボリバルに由来している。そしてこの何かの縁で僕の手元にやってきたボリバル紙幣が、いくつかあった候補の中で迷っていたこの後の進路を一本に定めた。治安の良し悪しを人々に訊ねながら、せめて国境までいってみようと思った。今後少なくとも自分が南米にいる間には、どうやら訪れることのできそうにない国のことを、コロンビアに居ながら感じておきたかった。それに決定的となった理由がもうひとつ。ベネズエラに行ける状況ではない今、その国境エリアこそが、ベネズエラ沿岸部を北の始点として、全長7000kmに渡って南北に聳え立つアンデス山脈を、僕が走り出すことができる最北の地に違いなかった。

Simon Bolivar

国境付近ではベネズエラからのガソリン、軽油がジェリー缶に入って路脇で売られていた。コロンビアではガソリン1ガロンが9000~10000ペソほどで売られているのだけれど、ベネズエラではなんとコロンビア通貨で換算すると1ガロン500ペソ(16円)ほどで販売されているのだそうだ。これだと1リットルは約4円ということになる。日本に比べれば、コロンビアだって安いのに、その18分の1の値段とは恐るべし。ミネラルウォーター1リットルを購入するお金でガソリンが約20リットル買えるという表現をしてくれたベネズエラ人がいたけれど、そう考えてみても、これはおおよそ正確な情報といえそうだ。闇ガソリン売買の価格は1ガロン4400ペソで、コロンビア国内正規価格のおおよそ半額。コロンビア人でも国境越えて、ガソリン購入してから、再びコロンビアに戻ってきてそれを売っても平気みたいだ。正確には違法だと思われるけれど、現実、国境でちょっとの賄賂払えば済む話なんだと思われる。なんせ警察官含め、ガソリンスタンド経営者以外、安く変えればみんなが得するんだろうから。

gasolina de Venezuela se vende en la calle en Colombia

gasolina de Venezuela se vende en la calle en Colombia

町中や郊外の標識に書かれたVenezuelaの文字に目が行く。自分にとってのアンデス山脈へのゲートとなった山々を越えて、低地に位置する蒸し暑いククタの町に着いた。ベネズエラはもう目と鼻の先の距離だ。町には出稼ぎでやってきたたくさんのベネズエラ人が滞在している。家族に送金するという目的で国を出てきた若者たちは、家賃で精一杯でまともな職も見つけられず、結局送金などできないケースが大半だと聞いた。外貨を得る手段のない国内に残る人々はどうすればよいのだろう。いや、幸運にも外貨を稼ぎ送金してくれる身内がいたとしても、第一、金があっても買う物がない状態だというのだから、どのようにしてベネズエラ国内の人々は生きているのだろう。医療サービスが無料のククタの公立病院も診察を待つベネズエラ人で溢れていた。薬がないというベネズエラでは医療サービスもやはり壊滅しているんだろうか。

cúcuta

aviso en un hospital público

事の''異常さ''を真の意味で僕が認識したといえるのは、ククタの町を発ってすぐのことだった。100m~200m毎にベネズエラからの難民の家族やグループが大きなリュックサックやドラムバッグを背負ったり、スーツケースを転がして歩いている。歩く彼らを複雑な想いで追い越していく。ひとりずつ、ひとグループずつ、ひと家族ずつ追い越していく。追い越しても追い越しても、その繰り返し。ククタは彼らの長く過酷な旅のスタート地点ともいえるところだ。こうやって国境を越えて人が来るのはもう数年も前からのことのようだけれど、1年半前くらいから一気にその数が激増し、事態は日々その深刻さを増している。このとき目にした光景は今後忘れることは決してないと思う。

caminantes venezolanos

道は再び山々へとゆるやかに上っていく。石を投げてマンゴーの木から実を落とそうとしている若い男女がいた。複数の別の家族からなるグループで、友人のいるペルーにおおよそ20日かけていく予定だといっていた。目的地が首都のリマだとしたって、直線距離で3500km前後ある。徒歩だけでは絶望的な見込みであり、もちろん彼らは途中箇所箇所でヒッチハイクで移動できることを見込んでいっている。この後、7月下旬にコロンビアを出国するまでの道中路上で会った数々のベネズエラ難民から直に聞いた話で考えると、彼らは平均して2週間でエクアドルとの国境まで至っている。一人で歩いていた青年は当てもないようで、とりあえずブカラマンガ、そして首都のボゴタを経由してコロンビア南部のカリを目指すという。テントなんてみんな持ってない。個人の経済状況によりけりで、毎晩道脇で夜を越していくもの、たまに民宿に泊まりながら進んでいくものもいる。でも、そもそもみんな、お金に余裕がないから歩いているわけであり、あればとっくにバスで目的地に向かっている。つまり、前者が圧倒的に大勢を占めるといっていい。

un gran arbol del mango

chico amable me dio muchos mangos

chivas

みんな疲れて道端でリュックを枕にして横になって休憩している。夕暮れとき、子どもを背負った若ママがガソリンスタンドまでどのくらい距離あるかわかるかと訊いてきた。24時間営業ならば、一晩中それなりのセキュリティのある環境で朝が待て、水道水もトイレも使わせてもらえることが期待できるからだ。スタンドがあるかは知らないけど、次の村までまだ20kmはあると伝えた。先行した自分は辿り着かなかった。この母親も家族もどこかで無事夜を越せていればよいのだけれど。やはりテントは持っていないといっていた。標高が高いので夜は寒いし、雨季の今、毎日のように雨が降る。この晩、自分は民家に許可をとって空き小屋の屋根下に張らせてもらえた。彼らも屋根の下で過ごせているだろうか。

caminantes venezolanas

campamento

翌日、ゆっくり山坂を上っていると、前日に見かけたベネズエラ人青年グループやいくつかの家族に会った。エクアドルの首都キトまで2週間でいくつもりだという。多くの人々が、先に着いてその土地で生活をしている家族、友人を頼りにいく。この後もたくさんの再会があった。チリまで行くという家族もいた。道中、国際ボランティア団体や地元コロンビアの団体が提供している難民のための休憩場が設けてあり、疲れて折り畳み椅子に腰かけて休んでいる人々の姿が。テント内では食糧、飲み物が配給され、簡易な医療サービスも提供されているようだった。

aviso de fundar colombia

área de descanso para refugiados

Carpa de descanso para los refugiados

一方、このときの僕はといえば、ククタから首都ボゴタまでの約800kmのアンデス走行を、立ち漕ぎで走るという、おそらく世界初と思われる一見おバカな試みに大真面目で挑戦していた。前の週あたりから、睾丸部に痛みを生じるようになっており、患部に気を遣ってのことだった。立ち漕ぎだと腕の筋肉を使うので腕が痛くなり、サドルの先端にちょんと座るようにして足への負担を和らげながらになるので、尾骶骨も痛くなる。何度も何度も止まって休憩した。普通にサドルに座って漕ぐよりも長い上りだと倍近い時間がかかる。緩やかながら長い長い距離を上って、ようやく大きなパンプロナの町に着いた。

todas las cosas se mojaron

腹ペコで食堂を探そうと進んでいると、町の入口に、道中声を掛け合ってきたたくさんの難民たちが一か所に固まっていて、「おお、お前やっと着いたか」と、彼らに囲まれ、みんな親しげに話しかけてくれた。彼らにとっても、もちろん僕にとっても、ただの通過点でしかないのだけれど、ひとまずのお互いの健闘を称え合った。ボランティア団体が、宿泊休憩のための建物を難民のために提供しており、彼らはちょうど昼飯の配給を列を作って待っているところだった。みんなが「お前もメシくってけよ」と言ってくれ、「いやいや、ベネズエラ人ではないのでその資格なぞないですから」と、当然のことながら断って去ろうとすると、「なにいっでんだお前、お前も俺たち(難民)みたいなもんでねーが」と、ちょっと素直には喜べない言葉でおじさんが引き留めてくれた。ボランティアのスタッフの人たちも「全然問題ないわよ、食べていきなさい」といってくれる。躊躇いながらも、みんなと近くなれる願ってもない機会が訪れた。大盛りの鶏肉野菜炒めごはんを頂き、地べたに座ってみんなで食べる。標高は約2400m。雨上がりで、汗が冷えると一気に寒くなりジャケットを羽織る。

zona de descansa para refugiados

comida de ración

この頂いた機会に何人かとゆっくり話すことができた。ここで滞在していく人、数時間休憩していく人、腹を満たしてまたすぐ走り始める人、さまざま。なんでも、このまま幹線を行けば、この先も50~100km置きくらいでボランティア団体が休憩所を設けて待っているのだそうだ。ベネズエラ国内の故郷の町からここまで4日かけてやってきたという、途中で会ったちびっこが両親と一緒にいたので、「大丈夫かい? よくここまで頑張ったね、お疲れさん」と声かけると、「おじさんは大丈夫?」と返してくれた。「ちょいと睾丸が芳しくないけども大丈夫だよ」と患部を抑えながら答えると、この手の話がたまらない年頃の少年はちびっこらしくとても良い表情をしてくれた。ここから僕は、脇道に逸れる予定なので、彼らと道が交差することは、少なくともしばらくなさそうだ。短い付き合いだったけれど、前日からずっとほぼ同じペースで同様の苦労を分かち合ってきたアミーゴたちに礼を伝え、僕は彼らに背を向けて再びペダルを漕ぎ始めた。 "スエルテ・イ・ノスヴェモス!(幸運を、またどこかで)'' 互いに交わしたお決まりの言葉だったけれど、それは僕の心からの気持ちだった。

el momento de despedida

チタガ(Chitagá)への道では、アンデスの山々にピンク色した桃の花がよく映えていた。グラナディージャという、パッションフルーツの酸味を甘味に変えたような果物や、コーヒーの実が低木に生っている。桃が梅で、グラナディージャがみかんや柿だったならば、小さい頃、夏休みや正月に遊びに行くのが楽しみだった下曽我の祖父ちゃん家の周りの風景みたいだ。そして、山を越えるたびに、僕を魅了する新しいアンデスの風景がまたやってくる。

flor de durazno

granadilla

中米あたりの急坂と違い、クネクネとゆっくりゆっくり標高を下げていくため、アンデスに生きる人々の暮らしのワンシーンワンシーンが、適度な速度で連続して目の中に流れ込んできて、まるで一本の映画を見ているような気持ちになる。勿体ないのでブレーキをポンピングしながらできるだけゆっくり下る。ロードバイクに乗った地元人に、日に何度かすれ違う。みんなエネルギー補給源にボカディージョ(グアバジャム)を携えている。コロンビアは自転車競技で有名な国だ。それにしても、なんて贅沢な練習コースだろう。


uvilla

paisaje con flores de violacíon

収穫期を迎えている紫色の花を咲かせたじゃがいも畑の周りには、黄色い菜の花が幾つか開いており、少量でも全体の景色の中で存在感を示していた。ただそれでいて、目立ちすぎるわけでもなく、景色全体を引き立てる脇役に徹している慎ましさが感じられる。主役は自分ではなく、その中で牛の乳を搾る人間の母子でもなく、じゃがいもを収穫する男たちでもなく、それを運搬する馬たちでもなく、アンデスの山であることを、他の小さな命たち同様十分心得ている様子。そして山々は自分が主役だなんてことは微塵も思っていない。そういうバランスが取れた場所には、風光明媚という言葉が自然と添えられる。

papas

caballos que llevan papas

パンプロナからブカラマンガへとみんな向かうといっていたけれど、''こっちの方がずっと長閑で景色の美しい道だよ'' とパンプロナで別れたアミーゴたちに教えてあげたいくらい気持ちよい首都ボゴタへの道だった。最も、彼らに大事なのは景色などではなく、ヒッチハイクに十分な交通量があり、彼らのための休憩テントや、夜もある程度の明かりが望める道であることは、もちろんわかっているけれど。

los Andes

新しく訪れる土地土地でベネズエラ人の歩く後ろ姿を見る度に、町で会って彼らと話す度に、あの日、ククタを発ったときに見た光景が強く思い出され、今も歩いているかもしれない彼らの旅の無事を僕は静かに願う。ボリバルに導かれて訪れた道で、僕の脳裏に刻まれたその映像は、僕がこの先南米にいる間各地で出会うことになるであろう多くのベネズエラ人たちとどういうふうに接していくかを完全に変えたと思う。南米全体に広がっている難民の数を考えたら、それは僕の南米旅自体を変えていくことになるともいえる非常に大きなものだ。

Simon Bolivar

「あいつら(ベネズエラ人) は物を盗む、気をつけろ」進んでいく先々の土地で、地元の人々からよくそう言われる。その度に僕は、「ベネズエラ人が実際に盗む事件が付近で起きたんですか?」と訊ねるようにしている。けれども、何故かそういうわけではなさそうな返事がいつも決まって返ってくる。なのに何か悪いことがあれば、すべてベネズエラ人の仕業にされてしまっている。こういう風潮は今、南米の国々全体にあるのだと思う。彼らがどういう経緯でそこまで辿り着いたのか、僕には痛いほどよく想像できるから、偏見だけでものを言うのはやめてほしい。

僕自身、汚い身なりで走っているとベネズエラからの難民に時折間違わられる。チェコにいたときはシリア難民に間違わられた。難民として見られようが別にいっこうに構わないのだけれど、往々にして彼らは汚らわしい目で見て来るだけなので、それが残念でならない。戦争、経済混乱、自然災害、思いがけないことが起これば、誰もがなり得ることなのに、人間自分がその身になってみないと他人の痛みはわからないのだろう。

幹線にひとたび戻れば、再び彼らが歩いている光景に出会うことになる。コロンビア南部では、エクアドルでもペルーでも仕事を見つけることができず、人々には ”仕事を奪い、物まで盗む” と冷たい目で見られ、殴られ、今度は北に引き返してきたベネズエラ人たちとすれ違うこともあった。話しているうちに彼らの瞳は潤いを帯びていく。南へ向かう流れの他、北へ戻る流れもある。どこかにあるであろう新しい居場所を探し求めて、彼らは今もがいている。

maíz

コロンビアとエクアドルの国境では、多くの難民が国境で夜を越していた。国際援助団体が、彼らが越境できるように、書類作成を手助けしているようで、それに何日かかかるのだそうだ。彼らは本来、南米数ヵ国内で結ばれたある協定のために、パスポートなしでエクアドルへと入国できるようだけれど、最低限、IDの他にいくつかの書類が必要らしい。しかし、ベネズエラ政府が国民の流出を防ぐために、それらを発行をしたがらないため、多くの難民は必要書類無しで国を出てきているということらしい。

área de descanso para refugiados

「ゆっくりいこうや」と追い越し際に、すれ違い際に一言声をかける。何も言わずに親指を立てながら横を通り過ぎるだけでも良い。それは彼らがどうして歩いているのか、''ちゃんと承知していること''を伝えるサインになる。彼らが欲しているのは仕事や住む場所だけではなく、もっと根本的なところに、そういう彼らへの理解みたいなものがあると思う。その一言で、クタクタだった足は不思議にもう何キロか前に進む力を得る。僕が今までやってこれているのも、そういう頂いた力の積み重ねのためだから、よくわかる。

偏見ではなく、彼らへの理解を持つこと。風評が彼らの旅に向かい風として働いているケースを考えると、南米に暮らす人々だけでなく、今現在南米を旅する者にとっても、それは大切なものであるような気がしてならない。もがく彼らを見てきて、それを伝えたく思い、自分が体験したことを振り返ってここに記しておこうと思った。

ククタに着いたとき、カルタヘナのデビッドからメッセージが来ていた。親戚と合流して共同で部屋を借りて暮らしているとのことだった。今頃は、仕事も再開できていて奥さんと子どもと暮らせるようになっていればよいのだけれど。

david

新しい居場所を探す旅路の中で、少しずつ進んでいけば目的地に着くこと、やればできるということを身をもって学んでいる彼ら。そして自国とは違う文化、知らなかった新しい世界を通りすぎながら、彼らにとって無意識に他にもいろいろ感じる機会となっている。ちびっこにとっては本当に大冒険だと思う。不適切な表現かもしれないけれども、幼いうちから、ちょっとうらやましいほどの大冒険をしている。”体験において、無駄なことなどひとつもない” そんなふうに思える日がやがて訪れたとき、体験した苦労はその後の彼らの人生にとって、かけがえのない大きな財産になっているに違いない。

大人にもちびっこにも踏ん張らなきゃいけないときがあります。止まない雨がないように、「最高の家族旅行だったね」とそんなふうにして笑い合える日が必ず来るので、それを信じて無事に歩き続けてほしいと思います。なんだか、アントニオさんみたいになってきたところで、お開きとさせて頂きます。

助けてください



@Cuenca/Ecuador
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hiromu jimbo

Author:hiromu jimbo
I'm in a challenge to cycle around the world
since May 2009,started from Istanbul,Turkey.
Motivation for this journey just comes from big curiosity about the world.I'd like to see and feel the ordinary life of the people living in defferent cultures.

2009年5月末イスタンブールより
自転車世界一周挑戦中です。
世界で起きていることへの大きな好奇心がペダルを回しています。その土地で生きる人の日常生活を見ていけたらと思います。

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*special thanks to sekiji-san

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68,781km (May09-May14)
75,731km (July2014- )

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