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2018年7月26日~9月21日

revolución cubana




ミニスカ編みタイツの女性空港職員。その光景はこの島国を訪れるものが与えられる最初の大きなインパクトになるに違いない。垂れ落ちんとする目尻をなんとか吊り上げんとしながら、その斬新な異文化体験をしばし楽しんだあと、その興奮はやがて「なんで?」という疑問に変わっていく。空港だけでなく、銀行やら博物館、公営の店やら中心に、キューバにはミニスカ網タイツ職員がどこにでもいることを、このあと僕は知ることになる。

そんな思春期の少年を悩ませているような疑問を抱きながら入国審査を通過し、ハッと我に帰りパスポートを確認してみると、スタンプの入国日が全く見えない。慌てて戻ってスタンプを押してくれた男性職員に伝えると、インクがないんだといい、コンピュータで管理してるから大丈夫だと続ける。そんな言葉を信じてはいけない。いざパスポートチェックを求められたとき、これが面倒になることは火を見るより明らかだ。滞在延長を予定しての入国なのでチェックは必ずある。付け入る隙を与えるのを防ぐためにも面倒源にはその場で対処しなければならない。大事な記録だから証明のサインなりなんなりくれと引かずにいると、「このチノ(中国人)がっ」と、僕の日本国旅券を手にそういった彼は、ようやく重い腰を上げ、新しいインクを取りにオフィスへと向かった。

なんとか初戦をものにし、預け荷物が回るターンテーブルへ。荷物を運ぶカートはどこにあるのかと、より現実的な疑問の方を網タイツのお姉さんに訊ねてみると、面倒臭そうにアゴをクイっと上げて方向を示してくれた。そこへいってみれば何も無いというのはよくある話だけれども、できれば無いのは愛想だけにして頂きたい。

アゴ先とは逆方向にあったカートを手にして再会した機内預けのナイロンバッグはビリビリに破られており、テープでグルグル巻きにして出てきた。初日は宿でこれを縫って直すことに時間をとられてしまった。ともあれ、自転車が入った段ボール箱は無事、それが一番大事。大きな期待を抱いて渡ったカリブ海に浮かぶ大島、その期待を裏切らないなかなかにわくわくさせてくれる滑り出しだ。

26 Julio

クラシックカーや自転車タクシーが行き交うハバナの街。この島では大人のみならず、小さな幼児までもがクラシックカーのハンドルを握っている。街にはいろんな肌の色をした人々が歩いており、中心部にはたくさんの白人旅行者の姿。クラシックカーが島でたくさん見られるのは、ソビエト産、中国産を除き、経済制裁で新しい車が1960年代から入ってきてないからなわけなんだけれども、皮肉にもその古い現役車たちは今こうして観光客を引きつけている。地元の人にも肌の明るめの人々が意外にも多い印象を受けたけれど、彼らの多くも白人黒人の混血であるムラートであり、ムラータであり、ラテンアフリカンなノリとなれば当然明るい。

un calle de habana

centro de la ciudad antigua de havana

para bebé

「キューバの女には気をつけろ。」キューバ女性は世界一美しいとキューバ人男性はみんな誇る。昔、アンゴラにいたときなどにも感じたのだけれども、ムラータさんは確かに美しい。バスを待っている母娘がいて話していると、「欲しけりゃこの娘、嫁にもらっていっとくかい?」とまるで果物をくれるような感覚でライトな冗談をいってくる。黒人の血が濃い、美しい子で、バスが来るまでヘビーに意識してドキドキしてしまった。このライトな冗談は、どこかの大陸でもよく聞いており、その度に僕はもうひとつうまい返しができずに苦笑いを繰り返していた。

mulata

カフェテリアに入り、ハンバーグとコングリ(豆ごはん)の早夕食。きゅうりとバナナが添えられている。幸せな時間はマンゴージュースで締めた(計20CUP=約90円)。僕のように北からアメリカ大陸を南下して来ると、この赤飯のような豆ごはんに出会うのはこの島が最初の場所になるのではないかと思う。どこかの大陸でも食べていたのでとても懐かしく感じた。ちなみに、とうもろこしやキャッサバなどの粉を水で練ってこねておもち状にした、その大陸で広く食されている料理を島滞在中探していたのだけれど、少なくとも僕自身がそれを目にする機会はなかった。キューバでなら簡単に出会えるだろうと思っていたのだけれど。

congrí

公園のベンチに座っていると、隣に一人の黒人系のおじさんが座った。挨拶すると、自然と会話が始まる。ミュージシャンだというアルベルトさん。和んだところで、彼のルーツを訊ねてみた。つまり、父方母方の遠い先祖はどこの土地から島にやって来たか、知っていますかと訊ねてみた。「アフリカだけれども、どのあたりとかは全くわからんよ」嫌がることなく、アルベルトさんは気さくにそう答えてくれた。

キューバにいる黒人系の人々は、16世紀から19世紀にかけて奴隷としてアフリカ西部や中央部を中心に集められ、運ばれてきた人々の子孫だ。彼のように、そして僕自身もそうであるように、大半の人々は自分の遠いご先祖様の出生地など知らないだろうと思っていたけれど、同じようにして訊ねて答えてくれた人々の中にはナイジェリアだ、コンゴだ、中にはエチオピアだなんて現在そう呼ばれる地名で、先祖の出生地を挙げてくれた人もいた。先祖の出自がはっきりしているのは、奴隷貿易終焉期に連れてこられたためかもしれない。いずれにしても彼らに共通しているのは、アフリカになど行ったこともなければ、ましてやこの島からだって一度も出たことがなかろうということだ。

historia

「昔、アフリカを旅したとき、陽気な人々から日々の生きるエネルギーをいつも頂いていました。あの大陸には思い出がたくさんあります。キューバに今日やってきて、島の人々に会って、この島とアフリカとの繋がりを感じることができてとてもうれしいのです。」というようなことを、片言で一生懸命伝えた。無言のまま、ケースからギターを取り出したアルベルトさんは、軽やかな指使いで弦をはじき始めた。

気持ちが伝わったというのがそのメロディーと彼の表情から感じ取れて、僕はとても晴れやかな気持ちになった。’’Bienvenido a Cuba!” (ようこそキューバへ) 最後にそう言って立ち上がると、アルベルトさんは旧市街の雑踏の中へと消えていった。

albert

僕にとってのキューバでの時間は、こんなふうにして主にアフリカとの繋がり探しだった。長い旅ではその土地を訪れたい明確な理由なんてのは薄れがちだと思うけれど、今回はそれがはっきりしていた。黒人の血を濃く持つ人々は奴隷として連れてこられた歴史に気安く触れられたくないという心理がある一方で、遠いアフリカの地に対する望郷の念を強く持っていて、自分の体に流れるアフリカ人の血に誇りを持っている気がする。だから大陸の話をすると耳を傾けてくれるんだと思う。

pescador

7月29日、不要な荷物はカンクンの宿に預けてきたため、いつもよりうんと軽い荷物でハバナ出発。町中心部から出たあと、まずはスタンドで調理用にガソリンを購入。1リットルが1.2CUC(当時のレートで約133円)。キューバの安い物価を考えるととても高い。キューバはベネズエラから原油を輸入している。後にカマグエイ州にあるソラという町にあるカフェテリアで、あまりの乾きに1杯2CUP(約9円)のグアバジュースを「オトロ、オトロ(もう一杯)」と10杯近く一気に飲み干したとき、呆れて笑っていた従業員のおじさんが自宅に招いてくれたことがあった。マリオさんというそのおじさんの奥さんは、その時ベネズエラにおり、看護婦として2年間のボランティア活動に参加しているところだった。反米政策を取った故チャベス大統領が大統領に赴任して以来、キューバとベネズエラの友好関係は始まり、医療、教育、文化、スポーツなどの分野でキューバから医師や指導者の無償派遣が行われており、数万人だかのボランティアがこうしている今もベネズエラで活動しているのだそうだ。ただ、同時にスパイも混じって派遣されており、ベネズエラの人々の表現の自由を抑圧している、とも後にコロンビアで会ったベネズエラ人難民から聞いた。しかし、ここで購入した僕とベネズエラとの初めての接点となったガソリンを、このわずか3日後、使い切る前に盗まれることになろうとは夢にも思わなかった。

fidel y chavez

el puerto de cienfuego

ヤシの木などが生い茂り、緑色をした景色が続く。その中をいびつな形をした車輪を転がしながら馬車が駆けていく。7、8月は島がもっとも熱を帯びる時期。北東から吹く貿易風が暑さを幾らか和らげてくれるんだけれど、やっぱりここも暑いもんは暑いし、湿度が高いので余計暑い。村々では、揺り椅子に腰掛け、家の前の日陰でくつろぐ人々の姿。面白いものでほんの200~300km海を隔てただけなのに、ユカタン半島やその後中米各国でどこにでも見られたハンモックを、この島では僕は一度も見かけなかったと思う。野球を楽しむちびっこたちの髪型は坊主頭か、流行っているのか、モヒカンでトップは茶髪といった風。道脇ではバナナや鎖のように連なった玉ねぎやにんにくが売られている。湿地帯には白い花が水面に顔を出し、馬が水浴びをしている。その水辺や道上をカニが横切っていく。自分の存在に気づくと慌てて横走りし始め、踏んでくれとばかりに走行ルート上に飛び出してくるものだから、不本意にも数匹のカニをタイヤで踏みつぶしてしまった。カニたちにはこの場をお借りしてお詫び申し上げたい。

palmas

cebollas

cangrejo

走行初日の夜、ガレージにテントを張らせてもらえ、夕食のテーブルにまで招いてくれたマヤべケ州のご夫妻は、「ここはお前の家だからいつでも戻ってきなさい」と翌朝別れ際にうれしい言葉をかけてくれた。その後、それがキューバ人の口癖だと分かるまでに時間はかからなかった。島滞在中、家に招いてくれた人も、敷地内でテントを張らせてくれた人も、自転車で一緒に走っていた人と家の前で別れるときも、ただ家の前で簡単な会話をして去るときも、みながみなそういってくれた。

gracias por una noche con la paz

さて、パスポートにはっきりと読めるように押し直してもらった入国スタンプの日付は7月26日。単に航空券の値段が最安だったため選んだ日だったのだけれど、なんとそれがキューバの革命記念日に当たるという偶然が重なったことで、革命にすぐ興味をもたされ、この国が歩んできた歴史を紐解きながらの旅にもなった。

guarapo

1953年のその日、当時弁護士だったフィデル・カストロが同志たちと親米政権転覆を図って軍の兵舎を銃撃し、失敗したところから革命は始まる。数年後、政権転覆を果たしたカストロやチェ・ゲバラたちは、米の経済制裁を受けながらも、富を分配する皆平等の国づくりを目指す。貧しくても、多くの経済難民を出しても、みなが仕事を持ち、教育と医療が無料で受けられる国を作ってきた。島を走れば、至るところに革命と社会主義を肯定するプロパガンダが見られる。

Cuartel Moncada

socialistas

その革命への理解を深めるため、革命の始まりとされるその1953年から3年後、亡命先のメキシコから船で上陸したカストロと他の革命戦士たちが、ゲリラ戦に向けて本拠を構えた島東部にあるマエストラ山脈にも足を踏み入れた。生い茂る木々が太陽光を遮り、ジャングルは非常にぬかるんでいた。戦士たちが通ったとされる山への道や潜んでいた小屋、戦いが行われた地などが一帯に点在しており、それらは現在どれも史跡となっている。

del camino al pico turquino

serpiente

カリブ海に浮かぶキューバ島にはきれいなビーチがたくさんあるわけなんだけれども、そして、それ目当てで来る人も多いのだと思うのだけれども、今振り返ってみると、サドルの上から眺めるだけで僕は結局一度もビーチで泳ぐことなく島を去ってしまった。この島での水の思い出といえば、この革命の源地であるマエストラ山脈麓の川で、小さなザリガニたちにチクチク挟まれながら素っ裸で体を洗ったくらいだ。炎天下が去った夕暮れときに、山からの冷たい水で洗い流す汗。きっと戦士たちにとっても過酷なゲリラ戦の中での束の間の楽しみだったに違いない。

camilo y fidel

hasta la victoria siempre

「食べるものがなかった。当時母親が国営のレストランで働いていたため、そこでなんとか食糧を手に入れることができたけれど、購入口がない人々には本当にものがなかった」革命に伴う米の経済封鎖により60年代から続く万年の物資不足。中でも最大の貿易相手だったソ連崩壊による90年代の経済危機の状況は酷いものだったと、グランマ州のニケロの町の食堂で同席だった「イチローイチバン」を連呼する野球好きのおじさんは思い出すように話してくれた。

jugando béisbol

beisbol

多くの人が居残ったけれど、一方で多くの人がギリギリを越えた生活の中、国を去ることを選んだ。革命初期に去った人はカストロの政策に反対の人々だったろうけれど、時間が経ってから出た人はそんな状況になってまでも、どこかでカストロを支持しながらの、生きるために止むを得ずとった行動だったのではなかろうか、何も知らない僕にそう推測させるほどカストロのことをよくいう人は多い。表現の自由があるわけではないので、人から聞くことすべてが本音ではないし(なかには本音で不満を口にする人もいたけれども)、アメリカ軍と亡命キューバ人の混成軍によるヒロン湾での侵攻を除いて、国内で反政府による大きな武力行使は起きていない(?)ようだし、よく聞く単なる独裁者とは異なり、フィデル・カストロという人は本気で国の未来を考えて行動する、人々から大きな支持を受けたリーダーであったらしいということ、賄賂なしでは何も事が進まないよくある経済貧困国と違い、汚いどろどろとした感じがキューバには感じられないことは、この島に来て、僕のように浅くでも島を走ってみれば、なんとなく感じられるのではないかと思う。

equipo fidel

el jefe

黒人奴隷の労働に支えられて、キューバの重要産業であり続けてきた砂糖生産。一面のさとうきび畑が両脇に広がる道を走っていると、どこか見覚えのある場面に行き当たった。畑横にフラットハンドルの青い自転車を止め、農家のおじさんがナタで刈ってくれたさとうきびを夢中でしゃぶっている青年。同じ大島でも、12年前の夏、貴重な連休を使って訪れた奄美の大島だった。大島のお隣に浮かぶ喜界島では、偶然前を通った小さな製糖工場で、親切なお兄さんが砂糖作りを見学させてくれた。お兄さんは、体に優しい黒糖と黒糖蜜をもたせてくれ、姿を変えたそのさとうきびも僕は夢中で舐めた。

camino de caña

en el campo de caña

campo de caña

断片的に蘇ってくる人生初のさとうきび体験の地となった島での時間を思い出しながら、キューバでも製糖工場を訪れてみたくなり、ラスツナス州にあるアマンシオという町を通ったとき、裏にある工場を訪ねてみた。でも、主な収穫期は12月から3月までだそうで、収穫期を除いてはどの工場も稼働しておらず残念ながら見学は叶わなかった。僕の旅ではこの後、ニカラグア以南で収穫期を迎え、コスタリカはカルタゴ州にある、さとうきび畑がやはり視界全体に広がったアティロという村に差し掛かったときにも、ふいに現れた製糖工場を訪れた。しかし、なにやら機械の不具合とかで、またしても工場は稼働していなかった。肩を落としていたとき、ナタで皮をきれいに刈り取って、僕の前にサッとさとうきびを差し出してくれたおじさんがいた。手を伸ばした先には、もうひとり懐かしい顔のおじさんがいて優しい表情をこちらに向けていた。

Fábrica de azúcar

campo de caña en costarica

オフシーズンとはいっても収穫は一年中あるので、グアラポ(さとうきびジュース)であるならば、キューバ各地で飲むことができた。搾りたての冷え冷えを空のボトルに詰めてもらい、タオルで包んでから陽に差されないように持ち運び、体が太陽にヘロヘロにされたところでゴクっゴクっと喉を鳴らす。そして再び太陽にヘロヘロにされるまで走る。これぞキューバの正しい走り方に違いなかった。

guarapera

guarapo

「こいつが恋しくてなぁ」グアラペラの前で話したアメリカ東部ニュージャージー州在住のおじさんは、1980年代にアメリカに亡命した。2009年、オバマ大統領が就任すると、キューバに親族がいるアメリカ人のキューバへの渡航や送金の制限が緩和された。フロリダ州のマイアミにはキューバ革命後、政治亡命したキューバ人の大きなコミュニティがあり、彼らやその家族らの出入りで、島では“MIAMI”と書かれた帽子やTシャツをよく目にする。このおじさんは、家族や友人たちに会うために6ヵ月置きに帰郷しているといっていたけれど、たぶんそれは本音であっても二の次で、実際は主にグアラポが飲みたいがために帰郷しているのではないかと僕に疑わせるほどグアラポはうまいし、それを飲んでるおじさんの目はギラギラとしていた。このキューバの砂糖生産も、ソ連崩壊後、砂糖の国際価格の低下もあいまって、設備への投資などの面で劣るキューバでは競争力のある値段で砂糖が生産できず、昔と比べ今では大分下火となっているのだそうだ。

otro otro

más caña

近年、自営業が認められるようになり、アメリカとも接近した現在のキューバには、最低限生活に必要なものならなんでもあるようにも自分には見えたけれど、種類がないし、また値段も近隣国と比べて高い。キューバ走行序盤で盗まれた自転車バッグには下着も入ってたので、新しくパンツを購入。後に泊まった民宿の主人が同じものを履いていたのをはじめ、村々を抜けていく際に注意してみると、同じパンツの色違いが庭やベランダで干されているのを何度も見た。バイクのヘルメにしたって、みんな同じものを被っている。

前出のアマンシオの町の数キロ前にあった、5家族のみが暮らす集落にある牧草地に、テントを張らせてもらった日の朝のことをよく覚えている。7歳のオスネイディは目の前の一重まぶたの東洋人に興味津々。朝歯磨きしてると「そんな色の歯磨き粉見たことない」と牛から目を離して、歯磨き粉を見つめ羨ましそうな表情をする。メキシコで購入したなんてことない白赤青の三色ラインの歯磨き粉。Bodegaと呼ばれるこの島の配給所で売っているのは、僕もこのあと購入する、8ペソ(約35円)の白い単色の歯磨き粉で、たいていの人々はこれを使っているものと思われる。「気に入ったなら、これは君のものだよ」と彼女に三色ラインのチューブを差し出す。「でも、これ使うとおじさんみたく目が細い人間になっちゃうよ」と余計なことをいうと「嫌だ」と言われてしまった。

cerca de amancio

バラコアでお世話になった民宿(カサ・パルティクラル)のおばちゃんに、配給について少し教えてもらえた。キューバの人々は年に一度新年前に、政府から配給手帳を受け取る。それに月毎に何をどれだけ配給所で購入したかを記入していく。この手帳提示で、食料品が通常よりも低価格で購入できるようだ。月に一人がその低価格で購入できる量は決まっており、米なら5ポンド(約2.25kg)、豆なら4オンス(約112g ※少ないので聞き間違えたかもしれない)、砂糖は4ポンド(約1.8kg)、油は1/2ポンド(約225ml)までといった具合。例を挙げると、配給所での通常の米の価格はこのとき1ポンド(約0.45kg)=4CUP(18円)、つまり、5ポンド(約2.25kg)=20CUP(約90円)だったのだけれど、手帳を提示すれば、一人につき月5ポンドまでなら6CUP(約27円)で購入できるということだ。夫婦なら二人で10ポンドまでが12CUPで購入可能ということになる。足りない分は、通常価格で購入することになるというわけだ。配給所はたくさんあるけれど、手帳で低価格で購入できるのは、自分が住むエリアにある配給所のみとなるようだ。配給所には食料品のほかにも、歯磨き粉や石鹸、テレビなども売られており、それらの物品に対しては手帳価格はなく、また購入量制限もなく、さらには僕のような異国人でも購入できるという仕組みだ。

bodega

lista de cosas venden en un bodega

ピザや、パンにハム、チーズ、卵焼き、マヨエーズ、コロッケ、揚げ魚、グアバジャムなどを挟んだものがどこにでも売られ、どんな田舎を走っていても、日に何度かはそれらを購入する機会があった。食堂に売店、路上で物を売る人々がこうして年々増えているため、予想していたような苦労は実際なかったけれど、村ではそんなに野菜売りなどを見ないし、どこの村でもある配給所では、生活必需品である食糧に関しては地元の人々しか購入できないので、’’自炊をしながらのキャンプ旅’’をするためには、買える場所でしっかり準備しておく必要がある。

pizza cubana

pan con minuta(pescado frito) muy delisioso

fruteria

調理道具一式も早々に盗まれてしまった僕は、蜂蜜を携帯し、村のパン屋でパンを買い、手押し車や路脇に並べられたアボガドを見つけては、機会を逃さないよう、早めに買って晩に備える、というようなスタイルに毎晩なってしまったのはとても残念だった。

carta

plátanos

馬車やカウボーイたちが行き交う島の道。そういえば、スペインからアメリカ大陸に馬が最初にもたらされた地はキューバなんだとか。米モンタナ州にあるクロウ先住民居留地を訪れたときそのように学んでいた。ここから徐々に広がって、やがてアメリカ先住民にも運搬用や狩り用にと採り入れられていったという流れだ。

Caballo

carro de caballo

馬は30年40年生きるというから驚く。田舎に住むキューバ人は、3歳4歳にもなれば馬の世話を手伝い、馬に乗り操り始めるのだという。だから島には馬具を売る店がどこにである。馬力ってやつぁほんとすごい。乗客を乗せ、荷物をたくさん載せていても、上りでは徐々に間をつめられ簡単に抜かされてしまう。その強靭な脚で踏ませれば穀物の脱穀にも便利だし、メキシコではメスカル(蒸留酒)をつくるのに、この馬力を用いて大きな石器を動かし、熱して柔らかくしたリュウゼツランの茎部を発酵前にすり潰していた。

carro de caballo

そして、中国産の人民チャリも今たくさん島で走っているので、馬車とチャリのポンチェラ (パンク修理店) がそこら中に見られる。ここではパンクシールは貴重でなかなか手に入らない事情から、パンクシールでの修理 (フリア方式) はとても高くつくので、古いチューブ片を熱で押し付けて穴を塞ぐカリエンテ方式でパンクを修理する。キューバに持ち込んだ持参のパンクシールも糊も盗まれたので、探し回ってなんとかガレージで売ってもらったけれど、分けてもらった糊が入った容器の密閉性が不完全であったため、いざパンクを直そうとすると、乾燥していて結局使いものにならなかった。行きついた結論は、キューバではパンクシールを探すよりも、たとえ辺境でも、最寄りのポンチェラまでがんばって押して行って、カリエンテ方式で穴をふさいでもらうのがよっぽど賢いということ。修理代は一穴につき3CUP(13円)が地元人の相場だ。

ponchera

ponchera

ponchera

島東部には、黒人系の人々が多いのに気づく。グランマ州に入るとマエストラ山脈を背景に水田が広がった。さとうきび畑と水田のあとに藁葺き屋根の家々が点々と現れる長閑な景色が続いた。この辺は国内ではよく知られた米の産地のようで、ベトナムや中国からの移民の影響もあって、生産性の高い米作りが行われているのだとか。キューバには日系人もいるので同じようにして居住区で米作りにおいての交友があるのかもしれない。チノチノと言われるなか、ひとりにだけ「ホーチミン!」と言われ、思わず吹き出してしまった。田舎ではチノチノ攻撃にも悪気は感じられないことが多く受け答える気になれる。人々は東洋人がチノ(またはチナ)と意味もなく呼ばれることが不快だということを知らない。これは世界共通。だから彼ら彼女らはこちらが不快に感じる理由がわからないので余計タチが悪い。当の中国人だって良い気持ちじゃないだろう。この話では以前メキシコで同じ問題を共有する韓国人のおじさんと深く話したことがあった。キューバは「最っ低」との印象を持って帰ることになったおじさんは、よほどのチノチノ攻撃を浴び、感情に素直に反応してしまったようだ。

campo de arroz

arroz

グアンタナモ州東部は急な傾斜の山道となり、海抜から約600mまで一気に上がる。第二カーブに差し掛かったとき、擦れ違った馬に乗ったおじいさんから「Joven, ve suavecito(若いの、力んじゃいかんぞ)」とボソっと教えを頂き、「スアヴェスィト, スアヴェスィト, スアヴェスィト…」と唱えながらゆっくり上って行った。その先にはちょうど収穫の始まったコーヒー畑広がる風景のご褒美が待っていた。このあとの中米諸国の旅では、コスタリカ、グアテマラを筆頭にして、どえらい傾斜の山道にしごかれていくのだけれど、いつだって僕はおじさんの教えを唱えながら、力まずに、少しずつ、這い上がっていった。

ruta en la costa de santiago

El techo para mi carpita tambien fue robado asi que..

cafe cubano en guantanamo

8月29日、ようやくキューバ島最東端のマイシに到達。灯台の下でカリブ海からの風に吹かれながら、前の晩テント泊させてもらった教会の牧師さんから頂いた顔サイズのどでかマンゴーを周りにいた人々と一緒に食べていた。横には灯台併設の住居があり、管理人のおばちゃんが住んでいる。24時間勤務2日休みのシフトを3人で回しているそう。暗闇の中に灯台の明かりを灯し、それを毎朝6時に消灯するのもおばちゃんの大事な仕事だ。

al faro de maisi

おばちゃんは、毎年8月から9月にかけての2ヵ月間だけ、お隣のハイチから海を渡ってやってくるゴロンドリーナ (つばめ) の話をしてくれた。マイシの海岸近くにある木に生る実を目当てに、毎夏やってくるそうで、食べ終わると再びハイチへと戻っていくのだそうだ。彼らを銃で撃って獲って食べると、「むっちゃうまいんやで」という。往きは貿易風に乗ってこれるけど、腹を満たした帰路は、風に押されてさぞ大変だろうなと灯台からハイチの方角を眺めながら思った。注意してみれば、黒い体をしたたくさんのゴロンドリーナたちが、居心地良さそうに上空で風に舞って遊んでいる。夏の2ヵ月間だけやってくるという鳥たちに、僕は自然と自分を重ねていた。

vista de la mar hacia Haiti

polimita

西に進路を変えると、それまで敵対してきた風も態度を急変させ友好的になる。この頼もしい味方が、ぐんぐん後ろから背中を押してくれるようになった。この風のおかげで余った時間は後でサンタクララとハバナでの野球観戦に充てさせてもらった。サンティアゴにいたとき、すでにモンカダスタジアムにも足を運んでいた。道中、キューバの英雄オレステス・キンデランが地元サンティアゴの監督だか打撃コーチだかをしていると聞いたものだからいかない理由などなかった。スタジアムで隣に座った息子連れのおじさんからそれは古い情報だと聞かされたときにはがっかりしたけれど、一塁側ダッグアウト裏付近にある彼の写真パネルを前にしたときの僕の顔は野球少年に戻っていたのではないかと思う。人々を真似て、「プスー」と口で鳴らして売り子を呼び、サンドイッチを食べながら観戦。この人の注意の引き方なんてアフリカそのもの。試合はホームランが飛び交う打撃戦になり見応えのあるゲームになった。でも、バットにヘルメット、グローブに至るまで道具を投げて扱ってるのが散見され、そっちが妙に気になってしまった。ゲーム後半、お父さんが掴んだファウルボールを手にした息子の”キンデランくん”はとてもうれしそうで、なんだか僕までうれしい気持ちになった。キンデランくんの本当の名前は今となっては知る由もないわけだけれども、英雄の名を受け継いだからには、大人のマネはせず道具を大切にする選手になってもらいたいと思う。

estadio de moncada

Orestes Kindelán

9月3日、鍬に乗っかり牛に引かせて田を耕す人、鎌で草刈りしてる人々、馬車で屋根用のヤシの木の葉を運ぶ人、何かを包むのかその茎部を干してる人、朝方に流れる風景の中でひとつだけいつもと違ったのは、ちびっこたちの登校姿だった。2ヵ月近くに渡る夏休みが終わり、新学年初めての登校日となったこの日、ちびっこたちが制服に身を包んで、親や家族からプレゼントされた真新しい靴や鞄で登校する姿、子どもたちをバス停で見送るママたちの姿がみられた。

campo

palma

教育が無料で受けられ、医療費も掛からないキューバという国。たとえその日暮らしのような給料でも、公務員が多いため失業者が少ない。薬が高いとかはあっても、金銭面で将来の家族の健康について大きな不安をもつ必要はないのだろうし、子どもの教育費について頭を悩ます必要もない。教育、医療にアクセスできない人々が世界にたくさんいるなかで、経済的にはすこぶる貧しい生活を強いられながらも、こんなふうにして生活できる国は他に世界にないのではないだろうか。

また、安定した電気供給で、保存が効くため、どこかの大陸のように大量のマンゴーが道端に落ちたまま腐ってたりもしない。人々はみんな読み書きができ、どの村にも診療所がある。その上、老人ホームだってある。強い繋がりがあるといっても、僕が過去に訪れたときにこの目に映ったアフリカとはずいぶん事情が異っているように見えた。

che

社会主義というと、持つ者と持たない者が出てこない平等な社会といったものが連想されるけれど、この国では社会階級という面でもそれが実現されているようだ。かつて黒人奴隷たちが白人に使われていたこの島には、奴隷制度撤廃以来、これも革命による平等精神によるものなのか、人種間差別がうまいこと消え失せ、本来当たり前なことなのにこの世界ではなかなか感じることができない、気持ち良い雰囲気が一見広がっている。白だから茶だから黒だから黄だから赤だから云々と、この時代になってもなお、露骨にそんなことをいっている人々が多くいるどこかの国とは違う。

bicicleta

赤は先住民のことを指す。この島にもコロンブスがやってくる前に、コロンビアやベネズエラから船でカリブの島々を渡って辿り着き、定住していたタイノと呼ばれる先住民がいて、例の如くスペイン人に全滅させられたといわれている。でも、拝観はしなかったけれど東部のバラコアにある考古学博物館の受付のおじさん曰く、グアンタナモの町の周辺にはタイノの生き残りがいて、約80人で構成される小さなコミュニティを形成しており、外部との血の交わりを断ちながら他の島民と何ら変わらない暮らしをしているのだとか。男性の平均は155cm, 女性は145cmくらいの小柄な人々らしい。1492年まで、彼らは漁や狩り農耕をして静かに暮らしていたのではないかと思われる。

lagarto

ranita

fruta bomba (papaya)

ハバナ到着前夜。テントを張った場所に蚊がいなかったので、アボガドパンを食べた後、思い出したようにフロントバッグに保管していた葉巻を取り出して、マッチを擦って火を点けた。肺には入れず、半月を見ながらゆっくり大きく吹かした。挟んだ指の先に居座る太いどっしりとした存在を確かめながら、思い出したくないことも含め、この2ヵ月間にこの島で起きたひとつひとつのシーンを振り返った。マイシのゴロンドリーナたちはどうしているだろう。腹を満たした彼らも、腹を空かしたおばちゃんたちに食べられていなければ、そろそろ風に逆ってキューバを発つ頃だ。気持ちが安らいでいくにつれ、次第に虫たちの鳴き声が大きくなっていく。すべてを灰にするのに1時間半以上もかかった。10日ほど前に、プエルトパドレという町で葉巻工場の外から窓越しに作業を見ていたとき、手慣れた動きで葉を巻いていた従業員のおじさんがくれた1本1CUPの国内消費用。輸出用や観光客向けに販売されるコイーバなどの有名ブランドの葉巻の葉の端と端をくっつけるのには、カナダ産のメープルシロップが使われているようなんだけれども、いうまでもなく、島民用の葉巻からはそれらしき甘い香りなど一切しなかった。

tabacos

tabaco cubano

amanece bien

翌夕、ハバナの革命広場で3,013kmのキューバ走行を締めくくった。自転車輪行用のダンボールを預かってもらっていた民宿の家族と再会。出発時自転車に備わっていたアフリカの埃をも吸い込んできた古いバックが、キューバ人の多くが所有しているプラスチック製の真新しい買い物バッグに変わったことに気付く唯一の人たちだ。

盗難事件は大変ショックな体験であったけれど、間違いなく僕にとってこれ以上にない良い教訓となった。そして、その出来事は、キューバ島民買い物バッグと、このあとカンクンの宿にこもり縫い合わせて作る自作バッグとの融合による新たなバッグを生み出し、ひとつ残された10年モノとの共演を実現させ、それらをまとった控えめにいっても世界で一番かっちょいい自転車をこの世に生み出すこととなった。振り返れば、得たものばかりで、失ったものなど何一つもなかったのだと、”キューバ危機”を乗り越え、時間が経った今そう思える。

java cubana

mi mochila nueva

9月21日正午、イシルさんは1951年製のシボレーで約束通り滞在していた宿に迎えに来てくれた。前の晩町で会い、通常のタクシーと運賃が同じだったので空港への送りをお願いした彼は、あらゆる格闘技を修得している鉄人。格闘技の指導者として活動しているそうなんだけれど、キューバではなぜかこのスキルで仕事をするのは今も許されないそうで、指導はすべてボランティアで行い、その傍らでタクシードライバーをして生計を立てている。キューバではこの観光客相手の商売が何よりも金になる。個人所有のタクシードライバーとなればかなりの高給取りとなるのだろう。所有のシボレーは売れば最低でも30,000USDにはなるという。しょっちゅう車は壊れるけど、もちろんパーツなど手に入らないので自力で直す。

彼は無免です

解体した自転車を積めたダンボール箱をなんとかシボレーの後部座席に突っ込み、空港へと向かう。車内にはイシルさんの息子がかけてくれたソンが流れ、それをバッグに、窓越しに見慣れたクラシックカーと自転車タクシーが走るハバナの街が過ぎていった。

車内にいては気にならないけれど、島走行では毎日のように、クラシックカーが大量の排気ガスをわざわざ僕の前で吐き出して走り過ぎていった。そんなキューバの路上風景はまさに今なお続く経済制裁に屈せず、大国と戦い続けてきた半世紀以上にも及ぶ時間を象徴するものであり、アメリカにNoと言えない島で、物が溢れる時代に生まれ育った僕には、ただただ眩しく格好良く映ってしまうのだった。

camino sobre el caribe en Guantanamo

havana

空港では、今日もお姉さんたちがミニスカ網タイツをパッツパツさせている。そんな当たり前のことには、もういちいち驚くことはない。この島にある”表現の自由”であり、似合っているのだからグラシアス以外何もいうことはない。おしゃれな彼女らは純粋に自分たちを魅せることがとてもお上手。これもきっとアフリカから海を渡ってきたものなのではないかと思う。

カリブ海上空、窓に額を押しつけながら、雲海に覗く海に目を遣る中国人の肌は、夏の太陽にこんがり焼けてムラート色をしている。その海に浮かぶ大島が歩んできた険しい道は異質で、その歩みそのものが世界遺産であるかのように人々を惹きつけて止まない。尽きることない島への興味を満たしに、サルサを一緒に踊ってくれるムラータさんを探しに、もう一度いつか僕はこの島に戻ってくるような気がする。きっとまた、ハイチからゴロンドリーナがやってくる暑い暑い季節に。

Kindelán futuro

el Caribe






●お知らせ

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  アフリカ・フランソワーズの部屋

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   是非直接よしたろうさんにお問い合わせください。 黒糖屋よしたろう ℡0997-65-2378





@Arequipa/Peru



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hiromu jimbo

Author:hiromu jimbo
I'm in a challenge to cycle around the world
since May 2009,started from Istanbul,Turkey.
Motivation for this journey just comes from big curiosity about the world.I'd like to see and feel the ordinary life of the people living in defferent cultures.

2009年5月末イスタンブールより
自転車世界一周挑戦中です。
世界で起きていることへの大きな好奇心がペダルを回しています。その土地で生きる人の日常生活を見ていけたらと思います。

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