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2014.04.24
24th April 2014
The river Ganges gently flows in front of me. Last night I saw dead people burned down and turning their figures into ash and smog in 3 hours. Ash was put on the sacred stream to get into the cycle of rebirth and smog was also going up somewhere they believed they would have another life. The dead were waiting for being thrown into the fire next to the place and old people were just waiting for their death to come on the side. I thought I wanted to live strong until the day I would die.
My first India tour is now near an end. Soon I will stop pedaling in Kolkata and once go back my home in middle May to get a visa for Pakistan and reconsider my equipment and make a plan for the road that lies ahead and above all to make my nieces I have never seen before learn my face and voice. I will come back to India after 2 months break.
So now I would have to take a dip in the sacred water of the Ganges to wash away sticky “dirt” accumulated on my body in last five years, so that I can meet them with refreshed and blessed face. I’m going to a shop to buy a piece of sacred soap.
Blessing to all my friends from Varanasi.


2014年4月24日
この時間差ブログには珍しいリアルタイム投稿です。
ガンジス川を拝んでいます。
昨日人間が焼かれるのを初めて見ました。死体は3時間で灰と煙に変わりました。
灰は川に流され輪廻の道を行き、煙もまた来世へと上っていきました。
死人がその横で焼かれるのを待っていて、
老人がその傍らで死がやってくるのを待っていました。
死ぬまでちゃんと生きなきゃいかんなと思いました。
今やっと「ガンジス」が理解できました。それがなんだかうれしくてたまらないのです。
小学校低学年か中学年の時だったか、確か初めて購入し(てもらっ)たCDが
長渕剛のアルバムでした。「乾杯」をテレビで聴いて「誰ですかこのおじさんは?」と親に訊ねたのではないかと思います。聴いてみると歌が入ってなくてオルゴールの音だけで、すごくがっかりしてしばらく立ち直れなかった記憶があります。
当時の幼い自分にオルゴールの良さはさすがにわからなかったもので。
あのアルバムに「ガンジス」は入っていたんだろか。
名曲だわ、ほんと。
またすぐ戻ってくるんですが、ひとまずインドの旅ももうすぐ終わりです。
来月中旬にパキスタンビザ取得のため、また装備見直しやこの先の計画を立てるため、そして、まだ見ぬ2人の姪に顔と声を覚えてもらうため一時帰国します。
2ヵ月準備してまたインドに戻って再スタートを切りたいと思います。
姪に嫌われないように、ガンジスの濁った聖水に浸かって
この5年間でついた”垢”を洗い流したいと思います。
聖なる石鹸を買いにいってきます。

@Varanasi・India
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2014.04.19
late February 2014
Standing on the salt desert of Kutch district, where the life of the people is largely connected with cattle industry and producing elaborated handicrafts and I had some opportunities to see a part of their life while being continually invited to their wonderfully fresh chai(milk tea). Pakistan lies just over this white sea, though the general border crossing has remained closed since the borderline was drawn in 1947 due to the political issue.
At dusk the smoky sky changed its color slowly into red and an impressive moment has come.
I still remember well my fingers on the shutter of the camera trembling with excitement. The reddish sky paying no notice to the existence of the “line” extended all around as if appealing something.
2月下旬
インドとパキスタンの間に広がる塩砂漠。
両国の分離独立以来、線が引かれその後国境はずっと閉ざされたまま。

グジャラート州全24の行政地区で最大のカッチ地方。
中南部には綿花、小麦畑が広がり、
その北方は塩砂漠となる大湿原まで広大な低木の乾燥した大地が続き、
首に銅鈴を吊るされた牛たちがカランコロンと音を立てながらのそのそと歩いている。



この地を数多のチャイのお誘いを受けながら、そしてそれに素直に甘えながら走ってきた。
カッチの新鮮なミルクで作るチャイはお断りするにはあまりにも惜しすぎた。





牛やヤギなどの家畜を追い、半遊牧の暮らしをしている人々がカッチには多い。
彼らのうち教育を受けている人々はとても少ないけど、
彼らは経済的に貧しいわけではなく、むしろその暮らしぶりは豊かであるようだ。
家畜がもたらすミルクはビッグビジネスで、
コミュニティ毎に4WD車を所有し町にも頻繁に物の売買に出掛けている。




その主な収入源である牧畜や農業の傍らで手工芸をするのがカッチに住む人々の伝統。
その工芸品のクオリティの高さは世界中に知られている。



女性たちが来ているミラーワーク刺繍が施された美しい衣装。
自分には見分けることは難しいけど、部族や宗教、カーストによってそれぞれデザインの違う衣装を着ていてまた着こなし方も違うというから面白い。


カッチは地震多発エリアで、最近では2001年の大地震で大被害を受けたくさんの人々が命を失った。場所により田舎なのに意外に新しい家や建物が多いことに気付く。
当時の地震で建物が崩壊したからだ。
カブラウ村にあるお寺で泊めてもらったときにスワミが言っていた。
「日本から救助隊が来て食糧やら毛布などの支援をしてくれた」
ここの寺もやはり新しかった。村では73人が地震で亡くなったそうだ。
スワミは泊めて頂いたお礼としてのドネーションも受け取ってくれなかった。


僕は何もしてないけど、今回のことに限らず日本人であることで勝手に感謝されたり
イメージが良かったり、対応が好意的であったりすることは多い。
普段何人に見られようがあまり気にしないようにしているけど、
自分はこういうときだけ都合良く”日本人面”になっている気がする。
576人の死者を出したチョバリ村で食事に誘ってくれたマハバさん。
彼はお母さんをその地震で失った。落ちてきたコンクリの下敷きになったらしい。
1993年には高さ12mもの津波が村を襲いこれも大被害だったようだ。
チョバリ村は南方の海岸から100km近く内陸にある。
津波は南のカッチ湾方面からではなく北側の塩砂漠の方からやってきた。
この辺が最初よく理解できなかったけれど、地図をよく見るとカッチ最西部の町ラクパット沿いを流れる小川によりカッチ湾と塩砂漠が繋がっているのがわかる。
大湿原は夏のモンスーン時期に、海水で覆われる。
この海水が引けると後に塩分が残るというわけだ。




カッチには現在のパキスタンやその周辺の場所から移り住んできた人々が多く、
その顔立ちはインド北部の他の地区よりも、
さらに増してペルシア(イラン)寄りの人が多い気がした。
ということでやたら体の大きい美男とスラッとして端正な顔立ちの美女が多い。
彼らがこの地に来たのはインド・パキスタン分離独立のずっと前の話だろうから、
いきなり線が引かれて行き来できなくなるとはもちろん思いもしていなかったろうけど。


因みにパンジャブ州のアムリトサル西部にある国境以外にも、
許可を得られればラージャスタン南部の国境から鉄道でのみパキスタンへの越境が可能。
ただこれは一般の事情で、向こうに家族でもいればもしかしたらそれほど困難なくカッチの国境でも越えられるのかもしれない。高価な刺繍にはパキスタン製の金糸が使われているようだったから。

夕暮れ時、乾期の平原に広がる白い海に辿り着いた。
空にはどんよりした曇がかかっている。
このまま日没かと思われたけど、
灰色の空はゆっくり赤色に染まっていき、やがて燃えるような鮮やかな色へ。

インドとパキスタンの間に広がる塩砂漠。
両国の分離独立以来、線が引かれその後国境はずっと閉ざされたまま。
何かを訴えるように”線”の存在を無視して広がる赤い空。
シャッターボタンにかけた指が震えていたのを今でもよく覚えている。
@Allahabad・India
Standing on the salt desert of Kutch district, where the life of the people is largely connected with cattle industry and producing elaborated handicrafts and I had some opportunities to see a part of their life while being continually invited to their wonderfully fresh chai(milk tea). Pakistan lies just over this white sea, though the general border crossing has remained closed since the borderline was drawn in 1947 due to the political issue.
At dusk the smoky sky changed its color slowly into red and an impressive moment has come.
I still remember well my fingers on the shutter of the camera trembling with excitement. The reddish sky paying no notice to the existence of the “line” extended all around as if appealing something.
2月下旬
インドとパキスタンの間に広がる塩砂漠。
両国の分離独立以来、線が引かれその後国境はずっと閉ざされたまま。

グジャラート州全24の行政地区で最大のカッチ地方。
中南部には綿花、小麦畑が広がり、
その北方は塩砂漠となる大湿原まで広大な低木の乾燥した大地が続き、
首に銅鈴を吊るされた牛たちがカランコロンと音を立てながらのそのそと歩いている。



この地を数多のチャイのお誘いを受けながら、そしてそれに素直に甘えながら走ってきた。
カッチの新鮮なミルクで作るチャイはお断りするにはあまりにも惜しすぎた。





牛やヤギなどの家畜を追い、半遊牧の暮らしをしている人々がカッチには多い。
彼らのうち教育を受けている人々はとても少ないけど、
彼らは経済的に貧しいわけではなく、むしろその暮らしぶりは豊かであるようだ。
家畜がもたらすミルクはビッグビジネスで、
コミュニティ毎に4WD車を所有し町にも頻繁に物の売買に出掛けている。




その主な収入源である牧畜や農業の傍らで手工芸をするのがカッチに住む人々の伝統。
その工芸品のクオリティの高さは世界中に知られている。



女性たちが来ているミラーワーク刺繍が施された美しい衣装。
自分には見分けることは難しいけど、部族や宗教、カーストによってそれぞれデザインの違う衣装を着ていてまた着こなし方も違うというから面白い。


カッチは地震多発エリアで、最近では2001年の大地震で大被害を受けたくさんの人々が命を失った。場所により田舎なのに意外に新しい家や建物が多いことに気付く。
当時の地震で建物が崩壊したからだ。
カブラウ村にあるお寺で泊めてもらったときにスワミが言っていた。
「日本から救助隊が来て食糧やら毛布などの支援をしてくれた」
ここの寺もやはり新しかった。村では73人が地震で亡くなったそうだ。
スワミは泊めて頂いたお礼としてのドネーションも受け取ってくれなかった。


僕は何もしてないけど、今回のことに限らず日本人であることで勝手に感謝されたり
イメージが良かったり、対応が好意的であったりすることは多い。
普段何人に見られようがあまり気にしないようにしているけど、
自分はこういうときだけ都合良く”日本人面”になっている気がする。
576人の死者を出したチョバリ村で食事に誘ってくれたマハバさん。
彼はお母さんをその地震で失った。落ちてきたコンクリの下敷きになったらしい。
1993年には高さ12mもの津波が村を襲いこれも大被害だったようだ。
チョバリ村は南方の海岸から100km近く内陸にある。
津波は南のカッチ湾方面からではなく北側の塩砂漠の方からやってきた。
この辺が最初よく理解できなかったけれど、地図をよく見るとカッチ最西部の町ラクパット沿いを流れる小川によりカッチ湾と塩砂漠が繋がっているのがわかる。
大湿原は夏のモンスーン時期に、海水で覆われる。
この海水が引けると後に塩分が残るというわけだ。




カッチには現在のパキスタンやその周辺の場所から移り住んできた人々が多く、
その顔立ちはインド北部の他の地区よりも、
さらに増してペルシア(イラン)寄りの人が多い気がした。
ということでやたら体の大きい美男とスラッとして端正な顔立ちの美女が多い。
彼らがこの地に来たのはインド・パキスタン分離独立のずっと前の話だろうから、
いきなり線が引かれて行き来できなくなるとはもちろん思いもしていなかったろうけど。


因みにパンジャブ州のアムリトサル西部にある国境以外にも、
許可を得られればラージャスタン南部の国境から鉄道でのみパキスタンへの越境が可能。
ただこれは一般の事情で、向こうに家族でもいればもしかしたらそれほど困難なくカッチの国境でも越えられるのかもしれない。高価な刺繍にはパキスタン製の金糸が使われているようだったから。

夕暮れ時、乾期の平原に広がる白い海に辿り着いた。
空にはどんよりした曇がかかっている。
このまま日没かと思われたけど、
灰色の空はゆっくり赤色に染まっていき、やがて燃えるような鮮やかな色へ。

インドとパキスタンの間に広がる塩砂漠。
両国の分離独立以来、線が引かれその後国境はずっと閉ざされたまま。
何かを訴えるように”線”の存在を無視して広がる赤い空。
シャッターボタンにかけた指が震えていたのを今でもよく覚えている。
@Allahabad・India
2014.04.12
early February 2014
Since I left Ahmadabad where delicious foods were everywhere, I had been always deadly hungry until reaching Diu, some 450km southwest. Probably mainly because I cycled the back roads, it was very difficult to find some decent foods as well as snacks like tasty “samosa”, ”pakora” or “vada pao” etc. on the way in this section. Once I finally found a restaurant, they served wonderful curry which I managed to sip with rice seemed to be cooked 3 days before in order to survive. To make matters worse, I didn’t have enough energy to cook myself as I had been sick at that time. The only thing to provide me with stable taste was salted potato chips which had surprisingly became my staple food on the route. Diu was oasis for me not because we can get alcohol if we want unlike in dry Gujarat, but just there were food everywhere. I truly love Indian food and have fun at every meal but something went wrong only this time..
2014年2月上旬
アフダマーバードの町を歩いていると、すぐにムスリムの多さに気付いた。
南でもムスリムの人々は見かけるけど印象に残るほどの数ではなかった。
顔立ちも南とやはり違う。これがアーリア人の血ってやつなんだなと思った。



ここのモスクは本当に美しかった。
そしてムスリムの祈りを久しぶりに間近にしてその祈りの美しさにもハッとした。


アフマダーバードを出てからディウまでの約450kmはいきなり修羅場となった。
十分暑いんだけど、この地にしては暑くない2月。
特に厳しい自然環境なわけでもなければ道も別に悪いわけでもない。
ただ個人的に体調を崩し発熱と下痢が続いたのに加え、
さらに食物がないという状態に陥った。
正確に言うと食べ物はあるけど、全然口に合わず食える食べ物が見つからなかった。

美味しい食べ物で溢れるアフマダーバードを発ち、裏道を繋いで南下。


食堂はおろか、サモサとかワラパオなどの軽食もなかなか見つからず、やっと食堂を見つけて入ればすばらしい味のカレーが出てきて、空腹なのにちびちびとカレーを3日前に炊かれたであろうライスと混ぜて、生き抜くためになんとか口にした。
中華に逃げても結果は同じ。
期待を裏切らない味を提供してくれたのは塩味のポテトチップスだけだった。
どこで何を食べてもハズレがなかった南部の食事が恋しくなった。


空腹時はたいてい何食べてもそれなりに美味しく食べられるとそれまで思ってきたけど、
この考えは覆され、カレーは大概美味しいという自分の中の定説も覆された。
ポテトチップスとペプシなどの食事を繰り返す。
体調はなかなかよくならず、自炊するパワーもなく常に頗る腹が減っていた。
寺や診療所でこまめに休ませてもらいながらゆっくり進んだ。
断っておくけど、この後北方のカッチ地方に入ると状況はすぐに改善され、
以後毎日北インド料理を楽しんでいる。
南のほうが好みだけど、野菜豊富なインド料理は大好きだ。
ただこの区間だけは何故なのかどうしようもなかった。
またこれは自転車移動であったからの問題であり、
走るルート次第で違った結果になったかもしれないわけで、
当然ただの一つのケースに過ぎない。
このエリアの食事云々を語っているわけではなく、
またそんな資格もちょこっと走っただけの自分にはないことを補足させてもらいたい。
露店で賑わうディウ15km手前のウナ(Una)という活気のある町に着いたときは
まるでオアシスに辿り着いたかのようだった。
法で禁酒が決められているグジャラート州に囲まれるように位置しているディウは飲酒パラダイス。1961年まで400年以上もの間ポルトガルの支配下にあったため、植民地時代の建物やきれいで静かなビーチが地元観光客を集めている。




基本、酒を飲まない僕は酒を飲みにきたわけでもなく、
かといって体調の悪い僕は観光もそこそこに
なるべく力がつくものを食べるようにしてあとは部屋で休んでいた。

個人的興味からガンジーが生まれたポルバンダルという港町まで走る計画だったけど、
ここまで時間がかかりすぎてしまったのと食事の問題も怖かったので、予定を変更しショートカットで北上を決めた。
翌日、ルート上にあったアジアで唯一野生のライオンがみられるというササーンギル国立公園まで走った。サファリツアーの料金を聞くだけ聞いて見たけど、予想通りなかなかの料金(7,000円くらい)だったのでライオンの看板をバックに写真をとって自分を満足させる。

この晩この町で食べたビリヤー二(炊き込みご飯)が、また悪意を感じるほどしょっぱかった。
良心的な値段だし、彼らがここで商売をしてくれているから
自炊せずとも腹が満たせるんだと思って耐えていたんだけど、
それまでの経緯もあり、4分の1も食べきらないうちにカチンときて
ワァーワァーと怒鳴りつけて場の雰囲気をぶち壊した。
その後、口直しで食べたポテトチップスは相変わらず絶妙の塩加減だった。
@Khajuraho・India
Since I left Ahmadabad where delicious foods were everywhere, I had been always deadly hungry until reaching Diu, some 450km southwest. Probably mainly because I cycled the back roads, it was very difficult to find some decent foods as well as snacks like tasty “samosa”, ”pakora” or “vada pao” etc. on the way in this section. Once I finally found a restaurant, they served wonderful curry which I managed to sip with rice seemed to be cooked 3 days before in order to survive. To make matters worse, I didn’t have enough energy to cook myself as I had been sick at that time. The only thing to provide me with stable taste was salted potato chips which had surprisingly became my staple food on the route. Diu was oasis for me not because we can get alcohol if we want unlike in dry Gujarat, but just there were food everywhere. I truly love Indian food and have fun at every meal but something went wrong only this time..
2014年2月上旬
アフダマーバードの町を歩いていると、すぐにムスリムの多さに気付いた。
南でもムスリムの人々は見かけるけど印象に残るほどの数ではなかった。
顔立ちも南とやはり違う。これがアーリア人の血ってやつなんだなと思った。



ここのモスクは本当に美しかった。
そしてムスリムの祈りを久しぶりに間近にしてその祈りの美しさにもハッとした。


アフマダーバードを出てからディウまでの約450kmはいきなり修羅場となった。
十分暑いんだけど、この地にしては暑くない2月。
特に厳しい自然環境なわけでもなければ道も別に悪いわけでもない。
ただ個人的に体調を崩し発熱と下痢が続いたのに加え、
さらに食物がないという状態に陥った。
正確に言うと食べ物はあるけど、全然口に合わず食える食べ物が見つからなかった。

美味しい食べ物で溢れるアフマダーバードを発ち、裏道を繋いで南下。


食堂はおろか、サモサとかワラパオなどの軽食もなかなか見つからず、やっと食堂を見つけて入ればすばらしい味のカレーが出てきて、空腹なのにちびちびとカレーを3日前に炊かれたであろうライスと混ぜて、生き抜くためになんとか口にした。
中華に逃げても結果は同じ。
期待を裏切らない味を提供してくれたのは塩味のポテトチップスだけだった。
どこで何を食べてもハズレがなかった南部の食事が恋しくなった。


空腹時はたいてい何食べてもそれなりに美味しく食べられるとそれまで思ってきたけど、
この考えは覆され、カレーは大概美味しいという自分の中の定説も覆された。
ポテトチップスとペプシなどの食事を繰り返す。
体調はなかなかよくならず、自炊するパワーもなく常に頗る腹が減っていた。
寺や診療所でこまめに休ませてもらいながらゆっくり進んだ。
断っておくけど、この後北方のカッチ地方に入ると状況はすぐに改善され、
以後毎日北インド料理を楽しんでいる。
南のほうが好みだけど、野菜豊富なインド料理は大好きだ。
ただこの区間だけは何故なのかどうしようもなかった。
またこれは自転車移動であったからの問題であり、
走るルート次第で違った結果になったかもしれないわけで、
当然ただの一つのケースに過ぎない。
このエリアの食事云々を語っているわけではなく、
またそんな資格もちょこっと走っただけの自分にはないことを補足させてもらいたい。
露店で賑わうディウ15km手前のウナ(Una)という活気のある町に着いたときは
まるでオアシスに辿り着いたかのようだった。
法で禁酒が決められているグジャラート州に囲まれるように位置しているディウは飲酒パラダイス。1961年まで400年以上もの間ポルトガルの支配下にあったため、植民地時代の建物やきれいで静かなビーチが地元観光客を集めている。




基本、酒を飲まない僕は酒を飲みにきたわけでもなく、
かといって体調の悪い僕は観光もそこそこに
なるべく力がつくものを食べるようにしてあとは部屋で休んでいた。

個人的興味からガンジーが生まれたポルバンダルという港町まで走る計画だったけど、
ここまで時間がかかりすぎてしまったのと食事の問題も怖かったので、予定を変更しショートカットで北上を決めた。
翌日、ルート上にあったアジアで唯一野生のライオンがみられるというササーンギル国立公園まで走った。サファリツアーの料金を聞くだけ聞いて見たけど、予想通りなかなかの料金(7,000円くらい)だったのでライオンの看板をバックに写真をとって自分を満足させる。

この晩この町で食べたビリヤー二(炊き込みご飯)が、また悪意を感じるほどしょっぱかった。
良心的な値段だし、彼らがここで商売をしてくれているから
自炊せずとも腹が満たせるんだと思って耐えていたんだけど、
それまでの経緯もあり、4分の1も食べきらないうちにカチンときて
ワァーワァーと怒鳴りつけて場の雰囲気をぶち壊した。
その後、口直しで食べたポテトチップスは相変わらず絶妙の塩加減だった。
@Khajuraho・India