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Leaving the North and Central America continent, pedaled 35,000km spending 2 years and 10 months, with much good memory and a bit of bitter memory too, Now I have reached Colombia. Except for some worry about the security problem, personally I didn’t have much previous knowledge of the Central part of America, however, once actually in the places, easily those turned out to be my favorite ones. it was so hard to go ahead as planned through this attractive latin world. Yes, this is pretty much an usual matter of my trip..:)

For having come to south and south little by little while having similar conversation with people with similar questions on myself and my trip in different places , I dare to say by now the language barrier once used to be huge for me when in Mexico, have been getting gradually smaller at least in very basic communication with people, which must be a reward of this bicycle trip with quite a slow pace and much chance of meetings. Now I’m eager to have more conversation with them on other subjects. I think there is materially many unnecessary things in our daily life, but as for our experience, there is maybe no wasted moment there to be closer to what we want to be.

Because of sights of many refugees from Venezuela under the political and economical crisis in Cartagena, a historical beautiful coast town in north Colombia and the landing point of a sailing boat trip I had had from Panama, I headed for border area with Venezuela via roads in interior regions not to visit but only to feel even a bit of the country that is currently unfortunately no go destination for traveler. I saw many groups of refugees coming in and keeping on their way toward Ecuador or Peru or even further to Chile where their family or friends, who immigrated earlier, wait for their arrival. So we go on the same direction going over the high mountains. The landscape is just magnificent, some are just like I had imagine but the others are totally different from my imagination. I’m going south slowly as they go step by step through the mountains I have long dreamed of pedaling in.

Greeting to all my friends from the Colombian Andes, the gate of the world longest mountain range for me

※posted on facebook middle May 2019

cartagena



どうも毎度おひさしぶりです。

2年10カ月を過ごした思い出深い北中米の旅(35,333km)を終え、コロンビアに入っています。中米は、あまり芳しくないといわれる治安に関して以外に、個人的にあまり前知識がないところでしたが、入ってしまえばどこもかしこもメインディッシュで居心地良く、やっとこさ抜け出せました。

各地で人々に同じことを聞かれ同じ話をしながら、無駄に長く過ごしてきた分、言葉の問題に関して簡単な会話の応答程度であるならば、憶することなく南米の旅に突入できているのは、自転車でちびちびと進んできたご褒美なんだと思います。このご褒美を使わせてもらって南米をより楽しんでしまおうと企んでいるわけです。不必要だと思う物事がたくさんある世の中ですが、殊、体験に関していえば、無駄なことなどひとつもないのかもしれません。

パナマからのセーリングボートの入港地となったコロンビア北部沿岸にある歴史あるカルタヘナの町からは、そこでの難民との出会いをきっかけに、政治・経済混乱でハイパーインフレ化のベネズエラを訪れずとも少しでも身近に感じるため、内陸の道を通ってベネズエラ国境へと向かいました。同時にエリアは、僕にとって南米を縦走する世界最長の山脈、全長7000kmにも及ぶアンデス山脈への入り口ともなりました。長年思い続けてきた場所にいるというのは、毎度ながら感慨深いものがあります。想像と一致する景色、まったく頭になかった景色のなかで、目にする数えきれないほどの難民たちの移動。一日一日、大小の発見をもらいながら、彼らと同じように僕も少しずつ南へ南へと進んでいきます。

長くなりましたが、ということで元気でやっています。

※2019年5月中旬 facebook投稿挨拶文より

cuesta






sombreros mexicanos

cowboys

cuba

comida beliceña

tucán

lago atitlan

amiga hondureña

rana

volcán concepción, nicaragua

papaya

amamos

pereza

san blas






2019年3月12日~4月28日

なんの接点もなかったベネズエラという場所のことを人から聞いたりするようになり、少しずつ考え始めるようになったのは、キューバを訪れたときだった。そして僕にとってのコロンビア最初の町であるカルタヘナに来て、その存在はぐんと身近になった。

llegé a cartagena

滞在先の宿には8カ月前に首都カラカスから移住してきた若い女性が掃除係として働いていた。アメリカ人経営の日本食レストランで働いていたという旦那さんと4歳と2歳の息子たちと一緒にバスでカリブ海側のマイカオ(Maicao)の国境を越えてやってきた。首都カラカスにいる両親に送金していて両親はそれで生きている。滞在中よく通ったすぐ近くのスーパーでもベネズエラ人の青年が働いていた。街を歩けば、ベネズエラ人の親子があちこちで小銭を乞うている姿。これはカルタヘナに限ったことではなく、この後訪れるその他のコロンビアの町のどれもが、ベネズエラからの難民で溢れていた。ベネズエラ第二都市石油生産の拠点マラカイボから、住処と仕事を求め国境を越えてやってきたばかりのダヴィド(David)と、カルタヘナの宿で出会ったときの僕はまだ、そこまでの''異常''事態になっていようとは気づいていなかった。

cartagena

宿の屋上で下階のキッチンで作った夕食をとっていると、一人の男が上がってきて、外の風景を見ながら携帯に耳を当て話し始めた。どうやらカルタヘナへの無事の到着連絡を、家族にしているようだ。新しい環境に興奮しているのが男の弾んだ声から伝わってきた。空港近くの宿で、彼はうれしそうに飛行機が至近距離で着陸する様子を携帯電話で動画に撮り、家族になんとか送ろうとしていた。

ダヴィドはマラカイボでやっていたように、カルタヘナの中心部で雑貨や携帯電話販売の商売をしたいという。妻子を残してきており、生活が落ち着いたらこちらに呼んで一緒に暮らすつもりだ。中米にいたときに、南米から上がってきた旅行者たちにべネズエラのことは簡単に聞く機会があったので、この時点でもう行くつもりはなかったけれど、当初はベネズエラを走ってみたいと思っていたことを彼に伝えた。そして、地図を片手にこの機会にベネズエラのことを聞きたくていろいろと彼に訊ねた。

mi mapa de venezuela

もう20年前からベネズエラ国内の経済の低迷は始まっているそうで、国際原油価格の下落に端を発する近年のハイパーインフレーションで通貨ボリバルは日に日に価値を失っていき、給料は変わらないので、いくら積んでもパンすら買えない状況になっている。20年前というと貧困層の生活レベル向上に取り組む政策をとったチャベス大統領が権力の座についたときと重なる。チャベス大統領時代にキューバに習い、教育費に加え、医療費を無料にしたベネズエラ。だけれども、現状はといえば、経済混乱で医師が薬をすべて懐に入れてしまったりなんだりで、薬が何もない状態だとか。チャベス大統領時代は決して楽な時代ではなかったけれど、生活は苦しくとも、国民は生きていくことはできた。でも2013年3月5日のチャベス大統領の死から、状況は悪化。以前はたくさんいた中国人商人たちも経済混乱で店を閉めて、大半は国を去っていったそうだ。

chavez

hermanas

隣国はベネズエラを支援したい気持ちはあっても裏でベネズエラに自由主義を導入させたいアメリカの政治的陰謀が働いており、なかなかそうはできないのだとか。アメリカがベネズエラを取り込みたいのは、原油を始めとした金、銀、ウラニウム, コバルトなどの豊富な天然資源の利権狙い。原油をアラブから輸入するには3週間は掛かるけれど、ベネズエラからだと1週間弱もあれば、フロリダに輸送できるそうだ。現在の主なこれらの資源の輸出先はロシアや中国で、アメリカはその流れを阻止したい様子。ベネズエラの民衆は、経済の立て直しを考えると、嫌いなアメリカに接近する方が良いと考えている人が多いのだとか。

bolivares

bolivares

翌々日の朝、彼はもういなかった。宿を発つ前に、ベネズエラ通貨のボリバル紙幣を僕に渡してくれるようにと、受付けに預けていったそうで、200、100ボリバル紙幣が2枚ずつと、50ボリバル紙幣が1枚僕の手元にきた。前の晩に一緒に話したときに見せてくれたものだった。正直、何ひとつものが買えない額なんだろう。いや、それでも、ガソリンならこれでもいくらか買えるのかもしれない。なんせ世界一ガソリンが安い国だと聞いているから。いずれにしても、僕にとっては宝物がまた一つ増えた想いだった。実家のどこかにあるであろうジンバブエドル札と並べて、いつかニンマリさせて頂こうと思う。ちなみに、ボリバルというのは、スペイン支配からの南米独立運動の指導者で、ベネズエラの首都カラカス生まれの英雄シモン・ボリバルに由来している。そしてこの何かの縁で僕の手元にやってきたボリバル紙幣が、いくつかあった候補の中で迷っていたこの後の進路を一本に定めた。治安の良し悪しを人々に訊ねながら、せめて国境までいってみようと思った。今後少なくとも自分が南米にいる間には、どうやら訪れることのできそうにない国のことを、コロンビアに居ながら感じておきたかった。それに決定的となった理由がもうひとつ。ベネズエラに行ける状況ではない今、その国境エリアこそが、ベネズエラ沿岸部を北の始点として、全長7000kmに渡って南北に聳え立つアンデス山脈を、僕が走り出すことができる最北の地に違いなかった。

Simon Bolivar

国境付近ではベネズエラからのガソリン、軽油がジェリー缶に入って路脇で売られていた。コロンビアではガソリン1ガロンが9000~10000ペソほどで売られているのだけれど、ベネズエラではなんとコロンビア通貨で換算すると1ガロン500ペソ(16円)ほどで販売されているのだそうだ。これだと1リットルは約4円ということになる。日本に比べれば、コロンビアだって安いのに、その18分の1の値段とは恐るべし。ミネラルウォーター1リットルを購入するお金でガソリンが約20リットル買えるという表現をしてくれたベネズエラ人がいたけれど、そう考えてみても、これはおおよそ正確な情報といえそうだ。闇ガソリン売買の価格は1ガロン4400ペソで、コロンビア国内正規価格のおおよそ半額。コロンビア人でも国境越えて、ガソリン購入してから、再びコロンビアに戻ってきてそれを売っても平気みたいだ。正確には違法だと思われるけれど、現実、国境でちょっとの賄賂払えば済む話なんだと思われる。なんせ警察官含め、ガソリンスタンド経営者以外、安く変えればみんなが得するんだろうから。

gasolina de Venezuela se vende en la calle en Colombia

gasolina de Venezuela se vende en la calle en Colombia

町中や郊外の標識に書かれたVenezuelaの文字に目が行く。自分にとってのアンデス山脈へのゲートとなった山々を越えて、低地に位置する蒸し暑いククタの町に着いた。ベネズエラはもう目と鼻の先の距離だ。町には出稼ぎでやってきたたくさんのベネズエラ人が滞在している。家族に送金するという目的で国を出てきた若者たちは、家賃で精一杯でまともな職も見つけられず、結局送金などできないケースが大半だと聞いた。外貨を得る手段のない国内に残る人々はどうすればよいのだろう。いや、幸運にも外貨を稼ぎ送金してくれる身内がいたとしても、第一、金があっても買う物がない状態だというのだから、どのようにしてベネズエラ国内の人々は生きているのだろう。医療サービスが無料のククタの公立病院も診察を待つベネズエラ人で溢れていた。薬がないというベネズエラでは医療サービスもやはり壊滅しているんだろうか。

cúcuta

aviso en un hospital público

事の''異常さ''を真の意味で僕が認識したといえるのは、ククタの町を発ってすぐのことだった。100m~200m毎にベネズエラからの難民の家族やグループが大きなリュックサックやドラムバッグを背負ったり、スーツケースを転がして歩いている。歩く彼らを複雑な想いで追い越していく。ひとりずつ、ひとグループずつ、ひと家族ずつ追い越していく。追い越しても追い越しても、その繰り返し。ククタは彼らの長く過酷な旅のスタート地点ともいえるところだ。こうやって国境を越えて人が来るのはもう数年も前からのことのようだけれど、1年半前くらいから一気にその数が激増し、事態は日々その深刻さを増している。このとき目にした光景は今後忘れることは決してないと思う。

caminantes venezolanos

道は再び山々へとゆるやかに上っていく。石を投げてマンゴーの木から実を落とそうとしている若い男女がいた。複数の別の家族からなるグループで、友人のいるペルーにおおよそ20日かけていく予定だといっていた。目的地が首都のリマだとしたって、直線距離で3500km前後ある。徒歩だけでは絶望的な見込みであり、もちろん彼らは途中箇所箇所でヒッチハイクで移動できることを見込んでいっている。この後、7月下旬にコロンビアを出国するまでの道中路上で会った数々のベネズエラ難民から直に聞いた話で考えると、彼らは平均して2週間でエクアドルとの国境まで至っている。一人で歩いていた青年は当てもないようで、とりあえずブカラマンガ、そして首都のボゴタを経由してコロンビア南部のカリを目指すという。テントなんてみんな持ってない。個人の経済状況によりけりで、毎晩道脇で夜を越していくもの、たまに民宿に泊まりながら進んでいくものもいる。でも、そもそもみんな、お金に余裕がないから歩いているわけであり、あればとっくにバスで目的地に向かっている。つまり、前者が圧倒的に大勢を占めるといっていい。

un gran arbol del mango

chico amable me dio muchos mangos

chivas

みんな疲れて道端でリュックを枕にして横になって休憩している。夕暮れとき、子どもを背負った若ママがガソリンスタンドまでどのくらい距離あるかわかるかと訊いてきた。24時間営業ならば、一晩中それなりのセキュリティのある環境で朝が待て、水道水もトイレも使わせてもらえることが期待できるからだ。スタンドがあるかは知らないけど、次の村までまだ20kmはあると伝えた。先行した自分は辿り着かなかった。この母親も家族もどこかで無事夜を越せていればよいのだけれど。やはりテントは持っていないといっていた。標高が高いので夜は寒いし、雨季の今、毎日のように雨が降る。この晩、自分は民家に許可をとって空き小屋の屋根下に張らせてもらえた。彼らも屋根の下で過ごせているだろうか。

caminantes venezolanas

campamento

翌日、ゆっくり山坂を上っていると、前日に見かけたベネズエラ人青年グループやいくつかの家族に会った。エクアドルの首都キトまで2週間でいくつもりだという。多くの人々が、先に着いてその土地で生活をしている家族、友人を頼りにいく。この後もたくさんの再会があった。チリまで行くという家族もいた。道中、国際ボランティア団体や地元コロンビアの団体が提供している難民のための休憩場が設けてあり、疲れて折り畳み椅子に腰かけて休んでいる人々の姿が。テント内では食糧、飲み物が配給され、簡易な医療サービスも提供されているようだった。

aviso de fundar colombia

área de descanso para refugiados

Carpa de descanso para los refugiados

一方、このときの僕はといえば、ククタから首都ボゴタまでの約800kmのアンデス走行を、立ち漕ぎで走るという、おそらく世界初と思われる一見おバカな試みに大真面目で挑戦していた。前の週あたりから、睾丸部に痛みを生じるようになっており、患部に気を遣ってのことだった。立ち漕ぎだと腕の筋肉を使うので腕が痛くなり、サドルの先端にちょんと座るようにして足への負担を和らげながらになるので、尾骶骨も痛くなる。何度も何度も止まって休憩した。普通にサドルに座って漕ぐよりも長い上りだと倍近い時間がかかる。緩やかながら長い長い距離を上って、ようやく大きなパンプロナの町に着いた。

todas las cosas se mojaron

腹ペコで食堂を探そうと進んでいると、町の入口に、道中声を掛け合ってきたたくさんの難民たちが一か所に固まっていて、「おお、お前やっと着いたか」と、彼らに囲まれ、みんな親しげに話しかけてくれた。彼らにとっても、もちろん僕にとっても、ただの通過点でしかないのだけれど、ひとまずのお互いの健闘を称え合った。ボランティア団体が、宿泊休憩のための建物を難民のために提供しており、彼らはちょうど昼飯の配給を列を作って待っているところだった。みんなが「お前もメシくってけよ」と言ってくれ、「いやいや、ベネズエラ人ではないのでその資格なぞないですから」と、当然のことながら断って去ろうとすると、「なにいっでんだお前、お前も俺たち(難民)みたいなもんでねーが」と、ちょっと素直には喜べない言葉でおじさんが引き留めてくれた。ボランティアのスタッフの人たちも「全然問題ないわよ、食べていきなさい」といってくれる。躊躇いながらも、みんなと近くなれる願ってもない機会が訪れた。大盛りの鶏肉野菜炒めごはんを頂き、地べたに座ってみんなで食べる。標高は約2400m。雨上がりで、汗が冷えると一気に寒くなりジャケットを羽織る。

zona de descansa para refugiados

comida de ración

この頂いた機会に何人かとゆっくり話すことができた。ここで滞在していく人、数時間休憩していく人、腹を満たしてまたすぐ走り始める人、さまざま。なんでも、このまま幹線を行けば、この先も50~100km置きくらいでボランティア団体が休憩所を設けて待っているのだそうだ。ベネズエラ国内の故郷の町からここまで4日かけてやってきたという、途中で会ったちびっこが両親と一緒にいたので、「大丈夫かい? よくここまで頑張ったね、お疲れさん」と声かけると、「おじさんは大丈夫?」と返してくれた。「ちょいと睾丸が芳しくないけども大丈夫だよ」と患部を抑えながら答えると、この手の話がたまらない年頃の少年はちびっこらしくとても良い表情をしてくれた。ここから僕は、脇道に逸れる予定なので、彼らと道が交差することは、少なくともしばらくなさそうだ。短い付き合いだったけれど、前日からずっとほぼ同じペースで同様の苦労を分かち合ってきたアミーゴたちに礼を伝え、僕は彼らに背を向けて再びペダルを漕ぎ始めた。 "スエルテ・イ・ノスヴェモス!(幸運を、またどこかで)'' 互いに交わしたお決まりの言葉だったけれど、それは僕の心からの気持ちだった。

el momento de despedida

チタガ(Chitagá)への道では、アンデスの山々にピンク色した桃の花がよく映えていた。グラナディージャという、パッションフルーツの酸味を甘味に変えたような果物や、コーヒーの実が低木に生っている。桃が梅で、グラナディージャがみかんや柿だったならば、小さい頃、夏休みや正月に遊びに行くのが楽しみだった下曽我の祖父ちゃん家の周りの風景みたいだ。そして、山を越えるたびに、僕を魅了する新しいアンデスの風景がまたやってくる。

flor de durazno

granadilla

中米あたりの急坂と違い、クネクネとゆっくりゆっくり標高を下げていくため、アンデスに生きる人々の暮らしのワンシーンワンシーンが、適度な速度で連続して目の中に流れ込んできて、まるで一本の映画を見ているような気持ちになる。勿体ないのでブレーキをポンピングしながらできるだけゆっくり下る。ロードバイクに乗った地元人に、日に何度かすれ違う。みんなエネルギー補給源にボカディージョ(グアバジャム)を携えている。コロンビアは自転車競技で有名な国だ。それにしても、なんて贅沢な練習コースだろう。


uvilla

paisaje con flores de violacíon

収穫期を迎えている紫色の花を咲かせたじゃがいも畑の周りには、黄色い菜の花が幾つか開いており、少量でも全体の景色の中で存在感を示していた。ただそれでいて、目立ちすぎるわけでもなく、景色全体を引き立てる脇役に徹している慎ましさが感じられる。主役は自分ではなく、その中で牛の乳を搾る人間の母子でもなく、じゃがいもを収穫する男たちでもなく、それを運搬する馬たちでもなく、アンデスの山であることを、他の小さな命たち同様十分心得ている様子。そして山々は自分が主役だなんてことは微塵も思っていない。そういうバランスが取れた場所には、風光明媚という言葉が自然と添えられる。

papas

caballos que llevan papas

パンプロナからブカラマンガへとみんな向かうといっていたけれど、''こっちの方がずっと長閑で景色の美しい道だよ'' とパンプロナで別れたアミーゴたちに教えてあげたいくらい気持ちよい首都ボゴタへの道だった。最も、彼らに大事なのは景色などではなく、ヒッチハイクに十分な交通量があり、彼らのための休憩テントや、夜もある程度の明かりが望める道であることは、もちろんわかっているけれど。

los Andes

新しく訪れる土地土地でベネズエラ人の歩く後ろ姿を見る度に、町で会って彼らと話す度に、あの日、ククタを発ったときに見た光景が強く思い出され、今も歩いているかもしれない彼らの旅の無事を僕は静かに願う。ボリバルに導かれて訪れた道で、僕の脳裏に刻まれたその映像は、僕がこの先南米にいる間各地で出会うことになるであろう多くのベネズエラ人たちとどういうふうに接していくかを完全に変えたと思う。南米全体に広がっている難民の数を考えたら、それは僕の南米旅自体を変えていくことになるともいえる非常に大きなものだ。

Simon Bolivar

「あいつら(ベネズエラ人) は物を盗む、気をつけろ」進んでいく先々の土地で、地元の人々からよくそう言われる。その度に僕は、「ベネズエラ人が実際に盗む事件が付近で起きたんですか?」と訊ねるようにしている。けれども、何故かそういうわけではなさそうな返事がいつも決まって返ってくる。なのに何か悪いことがあれば、すべてベネズエラ人の仕業にされてしまっている。こういう風潮は今、南米の国々全体にあるのだと思う。彼らがどういう経緯でそこまで辿り着いたのか、僕には痛いほどよく想像できるから、偏見だけでものを言うのはやめてほしい。

僕自身、汚い身なりで走っているとベネズエラからの難民に時折間違わられる。チェコにいたときはシリア難民に間違わられた。難民として見られようが別にいっこうに構わないのだけれど、往々にして彼らは汚らわしい目で見て来るだけなので、それが残念でならない。戦争、経済混乱、自然災害、思いがけないことが起これば、誰もがなり得ることなのに、人間自分がその身になってみないと他人の痛みはわからないのだろう。

幹線にひとたび戻れば、再び彼らが歩いている光景に出会うことになる。コロンビア南部では、エクアドルでもペルーでも仕事を見つけることができず、人々には ”仕事を奪い、物まで盗む” と冷たい目で見られ、殴られ、今度は北に引き返してきたベネズエラ人たちとすれ違うこともあった。話しているうちに彼らの瞳は潤いを帯びていく。南へ向かう流れの他、北へ戻る流れもある。どこかにあるであろう新しい居場所を探し求めて、彼らは今もがいている。

maíz

コロンビアとエクアドルの国境では、多くの難民が国境で夜を越していた。国際援助団体が、彼らが越境できるように、書類作成を手助けしているようで、それに何日かかかるのだそうだ。彼らは本来、南米数ヵ国内で結ばれたある協定のために、パスポートなしでエクアドルへと入国できるようだけれど、最低限、IDの他にいくつかの書類が必要らしい。しかし、ベネズエラ政府が国民の流出を防ぐために、それらを発行をしたがらないため、多くの難民は必要書類無しで国を出てきているということらしい。

área de descanso para refugiados

「ゆっくりいこうや」と追い越し際に、すれ違い際に一言声をかける。何も言わずに親指を立てながら横を通り過ぎるだけでも良い。それは彼らがどうして歩いているのか、''ちゃんと承知していること''を伝えるサインになる。彼らが欲しているのは仕事や住む場所だけではなく、もっと根本的なところに、そういう彼らへの理解みたいなものがあると思う。その一言で、クタクタだった足は不思議にもう何キロか前に進む力を得る。僕が今までやってこれているのも、そういう頂いた力の積み重ねのためだから、よくわかる。

偏見ではなく、彼らへの理解を持つこと。風評が彼らの旅に向かい風として働いているケースを考えると、南米に暮らす人々だけでなく、今現在南米を旅する者にとっても、それは大切なものであるような気がしてならない。もがく彼らを見てきて、それを伝えたく思い、自分が体験したことを振り返ってここに記しておこうと思った。

ククタに着いたとき、カルタヘナのデビッドからメッセージが来ていた。親戚と合流して共同で部屋を借りて暮らしているとのことだった。今頃は、仕事も再開できていて奥さんと子どもと暮らせるようになっていればよいのだけれど。

david

新しい居場所を探す旅路の中で、少しずつ進んでいけば目的地に着くこと、やればできるということを身をもって学んでいる彼ら。そして自国とは違う文化、知らなかった新しい世界を通りすぎながら、彼らにとって無意識に他にもいろいろ感じる機会となっている。ちびっこにとっては本当に大冒険だと思う。不適切な表現かもしれないけれども、幼いうちから、ちょっとうらやましいほどの大冒険をしている。”体験において、無駄なことなどひとつもない” そんなふうに思える日がやがて訪れたとき、体験した苦労はその後の彼らの人生にとって、かけがえのない大きな財産になっているに違いない。

大人にもちびっこにも踏ん張らなきゃいけないときがあります。止まない雨がないように、「最高の家族旅行だったね」とそんなふうにして笑い合える日が必ず来るので、それを信じて無事に歩き続けてほしいと思います。なんだか、アントニオさんみたいになってきたところで、お開きとさせて頂きます。

助けてください



@Cuenca/Ecuador
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hiromu jimbo

Author:hiromu jimbo
I'm in a challenge to cycle around the world
since May 2009,started from Istanbul,Turkey.
Motivation for this journey just comes from big curiosity about the world.I'd like to see and feel the ordinary life of the people living in defferent cultures.

2009年5月末イスタンブールより
自転車世界一周挑戦中です。
世界で起きていることへの大きな好奇心がペダルを回しています。その土地で生きる人の日常生活を見ていけたらと思います。

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*special thanks to sekiji-san

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67,350km (July2014- )

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