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8th~16th February 2015

The most impressive place of whole my trip in Iran was Kordestan, the western part of the country near the Iraqi border. Kurdish people, the main residents of the area usually live in the mountainous terrain with such a steep slope that the landscape as well as the people dressed differently was just special for me. A large number of Kurds also lives in Iraq, Syria and Turkey as an ethnic minority and has sought their independence in the each country. Some young and kind Kurds who had invited me to their cozy room started singing their Kurdish anthem for me with showing me their own flag and being very careful not to be heard by anyone outside. Unlike their brothers in Iraq who have got their self governing state, they have not had freedom so it is not allowed to hoist their flag and sing their song in public. They learn underground and have to sing it underground. It was in February, middle of the winter, when I was there and well remember that many of them had been proudly telling me “In the spring our land is exceedingly beautiful” By now there would be getting so bright with the numerous colorful flowers. Their forbidden song always freely echo throughout the spring mountain valleys in my head.  

sanson


2015年2月8~16日

女性はみな厳粛にチャドールをまとっている。ケーマンシャーへと続く道では、シーア派聖地カルバラやナジャフへの巡礼者を乗せたイラクへのツアーバスを何台か見かけた。バスのうしろ姿は瞬く間に小さくなっていきやがて一面に広がるじゃがいも畑の中に消えていった。その向こうに見える白い山々が冬の寒さを静かに伝えている。

potato field

この頃の僕の心はすっかりすさんでいた。「チーニー(中国人)」と東洋人を小バカにする人々。「チンチョンチン」擦れ違いざま目も合わせずにそう言って嘲笑しながら過ぎていく人々。世界の至るところに多かれ少なかれこの東洋人軽視は見られる気がするけれど、イランでのそれは酷く、僕のケースだとエスファハンを発ってからローレスタンを経てのエリアでは特別酷かった。加えてこの国にはアフガン人差別もある。多数のアフガン難民を抱えるイランでは彼らのことを汚らしいと見下す人々がとても多い。差別の裏側にはアフガン人がイランの人々の職を奪い、また麻薬を売り国内の治安を脅かしているという実情がある。同じ日本人でも顔立ちによって何も言われない場合もあるようだけど、日に焼けた僕の顔はアフガンに住むハザラ人にとても似ているようで「チーニー」よりも「アフガニー」という言葉に僕は精神的にかなり疲弊させられた(ハザラ人については別の機会にまた少し書きたいと思う)。

店で物一つ気持ちよく買わせてもらえない状態が続く。「お前アフガニーか?」
欲しいものを店員に伝えると、先ず言われる言葉がこれ。挨拶の返しがこれの場合も多々。買う気が失せる。「違う」といっても「いやアフガニーだよお前は」と言われることだってある。自分がどこから来ようが全くどうでも良いこと。少なくともこのタイミングにおいては。こちらはただ腹を満たす食糧を売ってほしいだけ。自分の出自に興味があるなら、せめて挨拶を済ませ、そして売買の話をしてからにでもして欲しい。何度か書いているように何人に見られようが自分は一向に構わないのだけど、明らかに軽蔑が含められた言葉とその見下した言い方に反発せずに普通に振舞うには時にとてつもないストレスを溜め込む必要があった。耐え切れずいちいち向き合ってはいったいどれだけの無駄な時間を過ごしたことか。

ハマダン州にあるナハヴァンドという町では190cmのマッチョとやはりこれが原因で取っ組み合いになった。周りが止めてくれると信じて大男に向かっていったけど、本当にすぐ止めてくれたもんだから心底ホッとした。僕は素直に腕っ節には自信がない。ナハヴァンドは小さな町。事後、ガソリンスタンドでキャンプ用の水をもらっているとき人々に事の話を聞いた警察官がやってきた。申し訳なく思ったのか「すぐにその男を捕まえてくるから待っていろ」と言って仲間に連絡を取ると、本当に小1時間ほどでその大男を自分の前に連れてきた。男の両手首には手錠がかけられている。「申し訳なかった。イランを嫌いにならないで欲しい。君が望むのならこの男を牢屋にぶちこみ刑罰に処すつもりだ」と警察官は言う。これは大袈裟に言っているのではなく、イランという国では本当にそうなるのだと思う。ちなみに僕らの会話は学校で英語の先生しているという女性が通訳となって仲介していた。謝ってくれればそれでよかったのでそう伝えた。男は平謝りすると堪え切れない笑いを押し隠しながら去って行った。彼はきっとまた同じことを繰り返すだろう。一ヶ月くらい牢屋の中で反省させるべきだった。ちなみにこの晩僕は警察が用意してくれたホテルの部屋に泊まった。全くもってテントで良かったけれど、このあと暗闇の中走って場所を探すよりは厚意に甘えるのがよほど現実的だった。汚さないように気を遣うそれはそれは立派な部屋だった。本当に良くも悪くもイランは旅行者に極端だ。

village

クルディスタンへ入るとそのような言葉へのストレスは明らかに減った。山にへばりつくように家々が段々に建ち並ぶ。山々を越えていく道は険しいのだけれど、余所者を自然に且つ優しく受け入れてくれるクルドの人々のおかげで次第にまた旅に向き合えるようになった。容易に近づけない険しい地形が外界とは一風異なったな文化習慣をこの地に形成させている。

mountain road

ojichan

クルド人男性はダブダブのズボンを履いているからすぐ見分けがつく。親元を離れ親戚を頼りに数ヶ月前イラクからやってきて暮らしているというダナは、Noryab村にある彼の部屋に滞在中ずっと貸してくれていたこのクルドのダブダブパンツをそのままお土産にもっていけと言ってくれた。大変光栄な言葉だったけど、このクルドパンツは腰部で縛らないとズルっと足元まで簡単に下がってしまうなかなか重量感たっぷりな代物で、染み付いたダナの男性臭がきついのでという理由をつけてお茶目に断った。余談だけどこの日の晩は部屋で彼らと“るろうに剣心”のファルシ語字幕のDVDを見ていた。僕はもちろんただ自然に入ってくる日本語の音声を聞いていただけ。観賞中も僕以外の3人はナマーズ (礼拝) を怠ることはなかった。クルドの人々の多くはイランで大勢を占めるシーア派ではなくスンニ派ムスリム。シーアとは違い、開かずに両腕を組んで祈りを捧げるスンニスタイル。お祈りも3回ではなく一日5回する。このときばかりは彼らのナマーズには一切関心を示さず僕はノートパソコンのスクリーンに意識を集中していた。久々に観る日本の映画だった。この山岳地帯で日本の幕末の動乱を目の当たりにできようとはいったい誰が予想できようか。それにしても江口洋介の斉藤一役は個人的にとってもよかった。

kurumi

kurd water pot

女性も一般的なイラン人基準よりも自由でカラフルな服装な人が多くこれはたまたまかもしれないけれどチャドールを着ている人も見かけなかったような気がする。ファインダー越しに鮮やかな色に包まれた彼女らを覗いていると、まるでインドにいるかのような錯覚に陥ったけど、重量感のあるペルシア絨毯がその錯覚をすぐに打ち消した。

Kurd children

独立した祖国を持たない世界最大の民族(およそ3000万人)と言われるクルド人。もともと、彼らはオスマントルコ勢力下で、ひとつの国に居住していたようだけど、第一次世界大戦後イギリスとフランスが自国の利益のために勝手に国境線を設定した結果、民族がその国境線で複数の国に分断されてしまったのだそうだ。大きな人口を抱えるイラク、シリア、トルコ、そしてイランでは分離独立を求め、地元政府との間で自治や独立を求める闘争を続けてきた。

map

2月11日のイスラム革命記念日。テレビでは首都テヘランでの盛大な祝賀セレモニーの様子を伝えていた。この日もやはりやたらと険しい山の中にあるNevinという村にいたのだけれど、30分くらい形式的に子供たちが外でイラン国旗を振っただけですぐに記念セレモニーは終わってしまった。政府の目があるため形だけ取り繕っている明らかにそんな様子だった。イランの国旗は見られてもクルディスタンのフラッグはもちろんここでは見られない。湾岸戦争後アメリカの介入でクルド人の自治政府が設立されたイラクや、内戦の中で自治を勝ち取りつつあるシリア内にいるクルド人のような自由はここにはない。トルコ同様、イラン政府はクルド人の自治運動を厳しく弾圧している。

snow road

obachan

クルドの人々の心情を考慮に入れると、イラン国旗をバッグに貼ったままクルド人の地を走るのは少し気が引けたけれど、クルディスタンフラッグを貼って走るということは、中国占領下のチベットでチベットフラッグを掲げて走ることと同じようなものなので、旅行者だろうが即刻逮捕・投獄されることは間違いないと思う。

Marivanという町で出会った青年たちも、やはり他のイランの人々のように家へ招き入れてくれた。彼らは町を案内してくれたのち、クルド人の歌 (国歌) を僕に聞かせてくれた。部屋の中で肩を組み、そして響かないように周りを気にしながら。クルディスタンフラッグもこのとき彼らが見せてくれた。彼らはこうやって隠れて闇で歌うしかない。“地下”でクルド国歌を学び、響かないように“地下”でそれを歌う。掲げることの許されない国旗が在り、他人前で歌うことの許されない国歌がこの世界には存在している、そう知らされた夜だった。曲調はそのような背景を感じさせるものではなく意外に明るいものであったけれど、その調べの裏に在る深い哀愁の念は他人には到底計り知れるものではないのだろう。

あれから早4ヶ月の時が過ぎようとしている。短い時間を共にした空の向こうにいる彼らのことを思い出すことは未だに少なくない。僕はクルディスタンの人と景色がイランの中で群を抜いて一番好きだったから。春が来た今彼らの土地は美しい花々で溢れていることだろう。「ほんとに綺麗なんだぞ春のクルディスタンは」クルドの人々はみな口を揃えて誇らしげにそう言っていた。僕の頭の中で描き出される春模様の山谷には、肩を組みながら歌う彼らの陽気な歌声がいつもこだましている。

dana

禁じられたアンセムを持つ人々に出会った日々の記録



どうもおひさしぶりです。雨が多い春のコーカサス地方ですが、どの土地も本当に綺麗で気持ちよく走ってこれました。明日いよいよトルコへと越境します。真新しい自転車とバッグで6年前に旅立った場所です。自転車には錆びが目立ち、革バッグには穴が空き、防水バッグはその防水性を失いつつありますが、日本で支えてくれている方々旅先で出会った方々のおかげで、あのときと変わらず今も健康体で走り続けることができていることに改めて感謝します。 

georgia


@Batumi・Georgia
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27th April 2015

Introducing a warm supporting activity with “haiku” poems by Iranian people gifted in 2011 to those who affected by the Great East Japan Earthquake and attendant Tunami for their psychological care in charge of the Japanese backup activity for the Bam Earthquake in 2003. I was moved my heart when I met these poems in a small desert town in eastern Iran, the hometown of its projector and translator. It would have greatly encouraged them to be strong in that critical situation. Sorry for no ability and time for translation. But as well as financial and material support, this sort of mental care must be needed in Nepal now..

句集



2015年4月27日


日本で大地が揺れた
世界では
たくさんの心が揺れた

                   モハンマド・ホセイン・マヘディープール


イランの人々から東日本大震災の被災者の方々に当時届けられた復興への祈りが込められた“希望”という名のHaiku集があるのをご存知ですか?旅の途中で出会ったこのHaiku集の存在を日本の友人にも伝えたいと思い今回紹介させてもらうことにしました。先日発生したネパールでの大地震で多くの死者・被災者が出ていますが、財政的物質的援助に加え今このようなメンタルケアが求められているのかもしれません。

※Haiku集の作成発案者で日本語訳も担当したテヘラン大学世界研究学部日本研究学科の研究員ザーケリーさんの許可を得、「Haiku集 希望」内のご本人による巻頭挨拶文とイランの人々から寄せられたHaikuのいくつかを巻中より以下にそのまま転写します。

ザーケリーさん




『Haiku集 希望』刊行にあたって

2011年3月11日に東北地方で発生した地震とそれに伴って来襲した津波によって、日本は甚大な被害に直面し、日本政府は閣議でこの地震の名称を「東北地方太平洋沖地震」とすることを発表しました。日本にこの地震が発生したのは、イランの正月の十日ほど前でした。当時イランは新年の準備に忙しい時期でしたが、私たちはテレビで放映されたニュースの画像を見て、被害の大きさに驚かされました。私は、地震の一週間後の新年の休みにイランの東部にある故郷の小さな町に帰省しましたが、そこでも東日本の大地震のニュースを毎日チェックして、日本のために何かできることはないかと考えていました。

2003年、イランの南東部にあるバム市に大きな地震が起こった時、援助のために日本からいろいろな団体が来てくれました。その時、テヘラン大学日本文学学科を卒業したばかりだった私は通訳として、派遣された日本赤十字社の医療チームに協力し、医療チームのスタッフの方々が尽力される姿を直接見ることができました。地震から一ヶ月ほど経つと、ケガや病気の治療にもまして、被災者の心のケアが大切になりました。生き残った人々は、親族が亡くなった苦痛を忘れるために麻薬に頼るなどの恐れがありました。そのため精神的な支援がたいへん重要になったのです。日本赤十字社のチームの提案で、ある避難民キャンプで仮設幼稚園を作ろうということになりました。幼稚園の備品を調達しようと、私と三人の日本人スタッフはバムの近くにあるジーロフト市へと出かけました。行きの自動車の運転手はアミーンという、地震で生き残ったバムの人でした。彼はトラックの運転手だったので、地震の時ちょうどバムにはいませんでした。戻ってみると、アミーンの家族は全員亡くなり、彼は突然ひとりぼっちになってしまったことが分かったのです。

ジーロフトから帰った翌日、医療所のテントの中でお昼ご飯を食べていた時、アミーンの話が出ました。雨がやわらかに降って、テントに水滴が落ちる音が聞こえていました。アミーンのために皆が悩んでいましたが、熊本赤十字病院から派遣された桑田さんというお医者さんが、ひとつの俳句を詠みました。いまその句を正確には思い出せませんが、「そんな瓦礫のなかにも雨の音はまた楽しい」というような意味であったことをよく覚えています。その俳句が与えた明るい希望の力を、私は、石に刻まれたように忘れることが出来ません。

故郷で東日本大震災のニュースを追いかけながら、バム地震のことを思い出しました。日本社会にたいして私たちイラン人は恩義を感じている・・・今度は私たちがそれに報いなければならない...と考えました。桑田先生の俳句を思い出して、将来への希望を失わないための俳句集を編集したいと考えました。

俳句は日本独自の短詩ですが、各国で翻訳され、驚くほど早く全世界に広まり、愛好家を生み出しました。Haikuという言葉は、世界中で (もちろんイランでも) よく知られるようになっています。とはいえイランでは、多くの人がHaikuとは日本の短詩であるということくらいは知っていても、「季語」や「五・七・五」などその原則は知りません。そのため詠まれたペルシャ語のHaikuのほとんどは、翻訳書の影響で三行の短詩ではあるものの、日本語の俳句の原則を守っているわけではありません。

イランで俳句が人気を集めていることに気がついた私は、震災後の日本に対する支援活動として、将来への希望と日本の復興を祈るHaikuの句会を催して、集まったHaikuを日本語に翻訳・刊行し、日本の被災地に送ってはどうか、というアイデアを思いつきました。これをテヘラン大学世界研究学部日本研究学科の主任であるナギーザーデ先生にご相談したところ、先生もそのアイデアに賛成してくださいました。正月の休みが終わってすぐテヘランに戻ると、世界研究学部のアーメリー学部長も賛成の意向を示してくださいました。

こうして、2011年5月4日に「希望俳句会」(希望のHaikuの句会)が世界研究学部のハンナーネホールで催され、80人ほどが参加しました。また私があるインターネットのサイトを通じて句会で詠む俳句を募集したところ、イラン各州の50人余りの詩人たちから自作の短詩が送られてきました。それぞれが一句から十句ほどのHaikuを送ってきましたが、そこから一、二句を選び、翻訳しました。「希望俳句会」ではナギーサーデ先生とアーメリー学部長が、東日本大震災の被災者にお見舞いの言葉を述べられました。その後15人の発表者が、壇上で自分の句を詠み、復興への祈りを捧げました。

今お手元にあるこの冊子は、こうしてイラン全土から送られてきたHaikuの選集です。このような選集はペルシャ語のHaikuにとって最初の試みかもしれません。ほとんどの句は、日本人が俳句と考えるものとは関係がないように見えるかもしれません。しかし、ひとつひとつの句が「将来への希望を失わないで」という願いを伝えているのです。これらは季語や五・七・五の定型といった俳句の原則にのっとってはいませんが、それぞれの句が、日本に対する私たちの深い感謝のしるしなのです。遠いイランでも大勢の人々が美しい日本を心配し、復興をお祈りしていることを、この句集から感じ取っていただけたらと願っております。私たちのこのささやかな支援活動が、イランと日本の関係史に刻まれることを祈ります。

                             ゴドラッド・ザーケリー




ザーケリーさんとの出会いのきっかけは、上記文中に出てくる砂漠地帯にある彼の故郷の小さな町を僕が偶然訪れたことがきっかけでした (2015年1月上旬)。町のサンドイッチ店で彼のいとこのアリさんと出会い、言われるがままに受けた電話口から聞こえる堪能な日本語を聞いたときは驚きました。「今夜は私の故郷でゆっくりしていってください」とザケーリさんは優しい言葉をかけて下さいました。

みなさん

アリさんは町のキャラバンサライ (隊商宿) や地下水槽を見に連れて行ってくれました。町のキャラバンサライは50頭ものラクダを繋いでおける立派なものでした。イランには999のキャラバンサライがあるのだと町の人々から教わりました。上階に上り東方に広がる砂漠を眺め旅立っていくキャラバン隊の姿を連想しました。エスファハンからきたキャラバン隊はこの地で休み、マシュハドそしてその先のアフガニスタン・へラートへと砂漠の海を渡っていったのです。かつてシルクロードと呼ばれた道をとおってインドから中央アジアを経てここまで来ましたが、ここでもその道の存在を確かに感じることができました。

サライ


周辺の町々と同様に、乾燥帯にあるこの町ではかつては山の伏水をガナートという地下水路を経由させ町に運んできていたそうですが、20年ほど前に枯れてしまったそうで水槽に水はありませんでした。井戸に加え、町脇を流れる細い運河の水はしょっぱく飲用には適しません。町にはサフラン畑やピスタチオ、ザクロの木などが見られましたが、大部分の農作物は収穫できないため飲用水と同様に離れた町から運ばれてくるのだと聞きました。決して住みやすいとは言えない環境の中で生きている人々の生活に共通するのはいつも工夫と助け合いです。その環境が強く温かい人間を育てます。ここに無いものがあればここにしか無いものが在ります。アリさんと奥さんが作ってくれたキャブビーフという砂漠に生きる木のエキスで作るデザートがここでしか味わえないように。

砂漠のデザート

デザートつくり

砂漠のデザート2

それから約2ヶ月後、念願叶ってテヘラン大学にザケーリさんを訪ねました。アリさんのお宅で「Haiku集 希望」を手にとって以来、是非とも彼に会ってみたいと強く思っていました。“希望”に寄せられた一句一句に目をとおすたび、熱いものが胸に込み上げてきたことを覚えています。偶然にもこのときも東日本大震災が起きた4年前のようにちょうど新年前で、彼が故郷に帰省する前でした。ザケーリさんの研究室や自宅には日本に関する書籍がたくさん。国内で販売されている日本の有名小説のペルシア語訳も多く担当されてこられたようです。現在は日本映画史や戦後の日本経済の発達過程などの研究で忙しくしておられました。あのとき電話口からそして“希望”の巻頭挨拶から感じられた彼の温かい人柄、そしてその彼が持つ日本に対する想い。実際ご本人にお会いしてこの2つを再認識させられました。彼の人柄と思いやりのルーツは彼の育った故郷にあるのではないかと思います。

町


日本とイランの関係史に深く刻まれた、彼とイランの人々から送られた支援活動を一人でも多くの人に知ってもらい、またそれが新たな両国の関係史を築いていくことを祈ります。

                                神保広武


逃げ場所はどこにもない
鴎 (カモメ) さえ
白い靴下はおじいさんの

                        レザー・アアラービー

荒れはてた店
主のない品々
警察もこず盗人もなし
侍達、侍達よ!
                        ビージャーン・オーシーダリー

家の瓦礫の上に
酒を飲む人
「生きていくために」と杯をあけ

                       メヘディー・シャーデカール

死は母の懐に似てさらに温か
どうか母に伝えて
私の墓から顔をあげてと

※ペルシャ語では死ぬことを母の懐に寝るという表現がある

                       ヴァヒード・キャーニー


大地は咽び (むせび) 泣いた。
その肩を揺らしながら
あなたは泣かないで

                       ダーヴード・マレクモハッマディー


最後の廃墟は
雀たちの最初の巣


壁さえない家でもかまうものか
それなら毎夜
月がお客

                       アミーレアリー・ソレイマーニー


にわかに荒れ狂う水
人であふれる濡れた墓地
悲しみを分かち合いながら

                       プーラーン・カーヴェ



散りゆく葉は
死ではなく
あらたな命が生まれる報せ

               ファフレッディーン・アフマディーサヴァーデクーヒー


蝶のさなぎは
黒く枯れた枝の上
青い芽がぽつぽつと

                    スィーマーネ・ホセイニー・ザアフェラーニ


年老いた鳥は
案山子の悪夢
瓜畑は
鳥のみたまぼろし

                    アッバース・ホシュアマレ・カーシャーニー


茶碗がぶつかりあう
廃墟へと向かう
世界のなかで
      
                       スィールース・ノウザリー


繋ぎ合わせて
砕けた鏡のかけらを
私をもう一度
そこに見ることが出来るように


                       レザー・ハーレディー

流れゆく日々
ふたつの墓石の間がゴール
サッカーに興ずる子供達
村の墓地で

                       アーレフ・アーハンギャル


桜がまた咲いたら
富士を見上げて
私を呼んで

                      エフサーン・レザーイー


高く寄せ
安らかにかえす波

                      サーマン・バフティャーリー


我慢しておくれ
駅のようになって
そのままじっと
私が着くまで

                      キャマール・ベラング


ちらちらと光る
蛍一匹
はなずおうの若葉に

                     アーラシュ・ガニーザーデ


餌を運ぶ
蟻の群れ
傷ついた雀のために

                     ホセイン・モスタファプール


日出ずる国
あなたの手をとる
人々の手の影
そして静まった大地と海

                     エフサーン・ラジービー・デフナヴィー


青い芽は
木々に伸びゆく
いずれの死のあとにも

                    アーテフェ・バルズィーン


あなたの揺れるたびごとに
私の両手も揺れている
驚愕とめまいのうちに
あなたの荒廃をグーグルに探すとき

                    エルハーム・クーシェシ

雪の白さ
そしてお前の手の温もりを
握りしめて

                    マフムード・アフシャーリー

金魚はひっそりと
津波のこない
庭の池

                   エブラーヒーム・アーデルニャー


日本よ!
今日お前の濡れた瞳を
けして乾くことのない
いずこの海に洗ったのか

                   ラーズィーイェ・ガーセムネジャード


俳句
ただひとつ
作られるべき爆弾

                   サーデグー・アブディー


亡骸
なおその乳を吸う
嬰児 (えいじ) と

フェレシテ・パナーヒー

昨日の陰を
瓦礫の下から引っ張り出す
今日の晴れた空の下に

                   アーラシュ・ノセラトッラヒー


津波あと
残されたものは月と魚
境内の石の水盤

                   
                   マスィーヘ・ターレビャーン

夜の絵を描く
ちいさなこども
そこにはいつもたくさんの星

                   ソフラーブ・アフマディヤーン


津波が連れ去った
木で出来た家々と
お祖母さんたちを

                   ゾウヤー・ゴウハリーン


暗い町
瓦礫を照らす
月ひとつ

                  ファリーバー・アラブニャー


どんな地震も私を壊すことは出来ない
どんな波も私をも連れ去ることは出来ない
富士のように屈強な私を

                  マーイエデ・デッガティナジュド


津波にありがとうと言おう
もはや
おまえは海になってしまったけれど
世界中の波が
おまえを家へ連れ帰ってくれるから

                  カームラーン・ラスルザーデ


波間に浮かぶ
お人形
微笑んで

                  マンスル・タブリーズィー


津波は去り
雀たちは
新しい巣作りに忙しく

                  アッバース・ホセインネジャード

                   
船は屋根の上、屋根は波の上
水よ引け!
土は生きるためにある


冬、三月十一日、涙の雨
それでも
桜の花は開く


                   アリー・ジャーンヴァンド



@Telavi・Georgia

20th March 2015

Since ancient times, Persian people have been feeling the arrival of spring at the same time as "No Ruz", the turn of the year in their calendar.

Shopping streets in Fuman in Gilan province are crowed with people busy with preparation for welcoming New Year. Besides “Haft Seen” ornaments sold on the street, the locally harvested vegetables and fruits and big fishes from “the sea of sweet”, which will take center stage on their table, are on sale in the bazaar. I heard they call the Caspian sea “the sea of sweet” for its low concentration of salt.

In Fuman, I’m staying in an old man’s house for some days with him. He, Hosein-san, is over 60 years old and used to work as a factory worker in Japan for 7 years in 1980’s~1990’s. On the way here I have seen many Iranian men with similar experience and still speak good Japanese. Unlike that time, it has become a big challenge for them to get visa for Japan nowadays. Most of those migrating workers were very keen to their work just like Hosein-san. But on the other hand a few had bad conducts of selling illegal drugs or forged telephone cards or even thieved and often had struggles which have lost their credit.

Just until recently Hosein-san had had a retirement life with leaving operation of his own restaurant which he started running some years after his return home. But he started working again now at his friend’s new restaurant nearby for their demand for his help. His town always attracts many domestic tourists in this time of the year so he is very busy but I’m very glad to hear his story in Japan even in a short time every day.

In a few hours, No Ruz will come at around 2:15AM. Hosein-san won’t come back home from his work till past midnight. I wonder how he would celebrate it when he was in Japan far away from home. When “Tadaima” (“I’m home” in Japanese) can be heard, we will peacefully celebrate together before falling asleep on the red Persian carpet. My extended visa will soon be expired at last. I have to leave here tomorrow for Azerbaijan going up along the world largest lake while searching for subtle signal of spring on the road where still chilly wind blowing from the sea of sweet.

HS


2015年3月20日

いよいよノウルーズ(元旦)を明日に控えたイラン。
新しい年の幕開けとともに、古来よりイランの人々は春の訪れを感じてきた。

年末の買い物客で賑わうギーラン州フーマンの商店街は活気に満ちている。
新年を迎える準備でみな忙しそう。正月用の飾りが路上で売られ、地産の野菜や果物に加え、食卓の主役・甘い海から採れたの大きな魚が市場に並ぶ。塩分濃度が低いため、地元の人々はカスピ海のことを“甘い海”と呼ぶのだそうだ。

しろみ魚

フーマンではホセインさんという62歳のおじさんの家にお世話になっている。
旅行者好きで、町や自身が経営するレストランで旅行者に会うと
ちょくちょく家に招き入れてきたというホセインさん。
旅行者が残したメッセージが書かれたノートには日本人の名前が一番多く、
僕とホセインさんとを繋げてくれた自転車旅行の先輩方の名前も見られる。

7年間日本へ出稼ぎに出ていた経歴を持つホセインさん。家族、友人たちの援助も得ながら集めた資金を元に、27年前 “豊かな生活”を求め単身で異国の地を踏んだ。仕事を得、生活が安定してからの一時期は奥さんと息子さんを日本に呼んで一緒に暮らしていたという。埼玉県内でダンボール作りや溶接工、時計などの部品作りの仕事をされていたらしい。似たような経歴を持ち、日本語を未だに上手に話すイランのおじさんは多い。

イランを旅していると、「どうやったら日本のビザは取れるんだ?」
「ビザが取れるようにおまえの力を貸してくれよ」と相談を受けたりする。
ホセインさんは観光ビザで入国し、3ヶ月毎に延長をして日本に滞在していた。当時は観光ビザですべてまかりとおっていたという。その頃はまだ取得が簡単だったという日本ビザは今ではめっきり取得困難となった。ホセインさんが日本に渡ってから1年半ほどで情勢は変わり始め、新たなに日本に来ることを望むイラン人にビザが発行されなくなったという。ホセインさんら真面目に働いていた出稼ぎ労働者がいた一方で麻薬や偽造テレカを売って不正なお金を稼いでいたイラン人がいたからだ。泥棒や喧嘩沙汰も多かったと聞く。働く意欲のある人には残念な話しだけど、失った信用はなかなか取り戻せないということなのだと思う。

きんぎょ

イランの正月休みは、日本と同じく家族親戚が集まり新年を賑やかに祝ったり、
国内旅行をしたりして過ごすのが一般的。ホセインさんは奥さんとは離婚して今は一人暮らし。息子さんは30kmほど離れたラシュトで弁護士をしていると聞いたけど、よく会っているし、まだ独身ということもあり新年といっても特別何かすることはないようだ。テヘランにいる姉妹も帰省の予定はないとのこと。新年間近、他人である自分が長居するのは憚れる時期だけど、毎日天気が優れず、また喜んでくれているようにも思えるため、まだ居させてもらっている。「イツマデデモイテダイジョウブダカラ」に甘え、お邪魔して今日で4日目になる。クリスマス直前に入国して早3ヶ月。延長したビザも間もなく切れる。天候の良し悪しに関わらず明日こそ出発しなくては。

ホセインさんは8年前に始めたレストランの経営を若者に任せて、最近までリタイア生活を送っていたようだけど、友人が始めたレストランのヘルプで9ヶ月前から再び現役に戻って働き始めている。正月休みに入り、国内旅行者が集まるフーマンでは今が稼ぎ時。生憎の天気が続く中でもホセインさんは毎日大忙し。
朝10時頃出掛け15時過ぎに一旦帰ってきては、仮眠後19時半にまた出て行く。帰宅は深夜1時頃。僕はいつもと変わらず観光や自転車整備その他の雑務をして過ごしている。

haft seen doll

一緒にいるときは「アナタハゲストダカラ」と何も手伝わせてくれないホセインさん。ホセインさんに限らず、この言葉はホスピタリティ溢れるイラン人やパキスタン人の口癖。せめてもと、昨夜は風邪気味のホセインさんのために生姜入りはちみつレモンティーを作って待っている予定だった。南アフリカのダーバンで僕が酷い風邪に苦しんでいたとき、当時お世話になっていた人は毎日作ってくれたものだった。

バザールで買ってきた生姜の皮を剥き始めてカリっと味見したときに
“それ”が生姜じゃないことに気付いたときはびっくりたまげた。
生姜だと思って買った、見た目どう見ても生姜でしかない“それ”の正体は、
イモの一種だったらしく検討違いの味が口の中に広がった。

帰ってきたホセインさんにそれを伝えると想像以上に大喜び。
なんでも日本に住み始めてまだ間もないころ、
ホセインさんは僕と逆の間違いを犯したそうな。
イモと思って買ってきた見た目どう見てもイモでしかない“それ”の
皮を剥いて食べたとき、びっくりたまげてしまった当時のホセインさん。
それはそれは全く検討違いの味が口に広がったことかと思う。

れもん&しょうが

聞けば、イランでも生姜は手に入るけど、
粉末にされて売られているのが一般的で元の姿を知る人は少ないみたい。
ちなみにこのイモはイランで主にトルシー(漬け物)にして食べられているもの。

日本にいた頃の話をしているときが、
ホセインさんの表情が一番柔らかくなる。
短い時間だけど一緒に過ごしてそんなふうに思った。

あと数時間でノウルーズがやってくる。
午前1時近くにならないとホセインさんは仕事から帰ってこない。
日本にいたときはどんな風に新年を祝っていたのだろう。
「タダイマ~」が聞こえたら、
そんなことを訊ねながら静かに新年の訪れを祝って眠りにつこう。
イラン暦1394年の年明けは午前2:15分頃だそうだ。

明日はいよいよアゼルバイジャン目指し、カスピ海に沿って北上を開始する。
まだ肌寒い“甘い海”からの風吹く道に微かな春の気配を探しながら。

甘い海


@Quba・Azerbaijan
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hiromu jimbo

Author:hiromu jimbo
I'm in a challenge to cycle around the world
since May 2009,started from Istanbul,Turkey.
Motivation for this journey just comes from big curiosity about the world.I'd like to see and feel the ordinary life of the people living in defferent cultures.

2009年5月末イスタンブールより
自転車世界一周挑戦中です。
世界で起きていることへの大きな好奇心がペダルを回しています。その土地で生きる人の日常生活を見ていけたらと思います。

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