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2017年5月11日


先月、越冬生活を終え走り出しましたが、友人から引き受けた犬の世話で2週間ちょっと留守を預かり2匹のアラスカンハスキーとの同棲生活を送っておりました。

素敵な町に住まいを持ち、決められた日にゴミを出し、彼らのような立派な犬を連れ散歩に出る。そんな、僕にとって“非日常”なシティ・ライフはなかなかに悪くない時間でした。この町には昨夏から何度か来ていますが、汚い格好をしていつも外で適当に寝袋で寝ていたため、その生活とのギャップがなんだか滑稽で終始くすぐったく感じておりました。

当初、散歩道にあった雪も、次第に解けどろどろになり、今ではほぼすっかり乾いてしまいました。日当たりのよい南向きの原地ではちらほらクロッカスなどの花も咲き始めています。そんな変化と同じようにして自分自身も少しずつ彼らに慣れていった次第です。最初はパワフルな彼らに引っ張られてばかりで、向こうから人や他の犬が来ればその都度あたふたしておりましたので、ある程度、自信を持って彼らを連れて歩けるようになった今、わずかながら自身の成長を感じております。

犬の世話のポイントは、単に可愛がるだけではなく、ときに厳しくしっかり自分が主であるということを示すこと、またこちらの感情や想い、意図をエネルギーとして彼らに送って伝えることが大切なようです。育児というのも同じなんでしょうか。

シェパードとの雑種であるオスのK(13歳)はどっしりおっとりとしている愛らしいやつで、ハスキー犬のメスのN(8歳)はいつもなにかを企んでいて油断も隙もあったもんじゃない抜け目ないやつです。そんなふうにして、犬にも性格があり、いびきもかけば、くしゃみもし、ツメも伸びれば、同じものを食べているのにうん○が硬ければ柔らかい日もあり、歩かせ過ぎると疲れもします。そういう当たり前に思われるようなことでも犬を飼ったことがない男には「な~るほど」の連続でした。

そして、彼らと歩いていると、ひげを生やした無職のもっさいおじさんでも周りの人からまるで紳士のようによく扱ってもらえるのがちょっとおもしろく、大きな「な~るほど」でもありました。人様の犬ですが、人を惹きつけるスター性のある自慢の家族でした。

春は毛が抜ける時期で、日々彼らの体から毛がもっさり抜け落ちています。餌を食べさせ、共に歩き、いつも隣で寝ていた彼らともお別れです。責任を果たせた安堵感に加え、面倒な感情まで持ってしまった感が否めません。主の帰宅に彼らは自分のことなど瞬時に忘れてしまうのでしょうが、こちらは自分の衣類に絡みついた彼らの毛を見るたびに、彼らの顔が浮かんできそうです。


フェアな話じゃないですよね、これは。
日常生活に戻って、せっせと自分の世話をしたいと思います。

yukon river

dam on the river



@Whitehorse/Canada
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2015年10月20日~12月25日


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10月24日、時計が伝えている時刻を一時間戻す。サマータイムはもう終わりだ。いや正直に書き直すとこれに気付き時刻を合わせたのは一週間経ってからで、それまで一時間早い時間の中でひとり生きていた。日陰を探していた季節は終わり、逆に日向を求めるようになっていた。手袋なしで走るのはもう難しく、昨冬使用したハンドルカバーも再度縫い付けて10月中旬から活躍してくれている。

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ラテン語に分類されるルーマニア語の起源は紀元前にこの地を支配していたローマ帝国に遡る。そのため、フランス語やイタリア、スペイン語などどれかひとつでもかじっていれば、何単語か意味が拾えてギリギリアウトなトークが展開できることもたまにはあるはずだ。比較的陽気な人が多く、その辺他の東欧の国々とは一風変わっていると感じる人も多いかもしれない。

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カルパチア山脈は赤黄色に燃え一年で一番美しい姿で迎えてくれた。太陽光が紅葉に染まる山村を輝かせ、山水では気持ち良さそうにもみじが泳ぐ。山間部周辺の広い敷地を持つ家々は家畜のためか黒クマ対策かどこも柵で囲まれていて近づけない。いったいどうやって建てられたんだろうかと考えてしまうような山の急斜面に建つ家々を見上げながら過ぎて行く。

on the steep slope

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霧で視界の効かないプリスロップ峠(1,416m)を越えぶるぶる震えていた。下りの寒さを甘くみていて、下る前に着込むのを怠り、途中止まって何枚か着込んだものの体がすでに冷えてしまっていた。売店に入り紙コップ一杯のカフェを頼むと、地元のおっちゃんたちは喉を指で指すあのお決まりのジェッシャーをする。「要らんです」と断ったけど、親切に盛ってくれちゃってグイっと喉奥へと流し込む。プルーンとかリンゴで作るツイカやパリンカと呼ばれるルーマニアの自家製蒸留酒はアルコール度数60%。カァーっと確かにあったまる。

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丘陵地帯に積まれた干し草の山々は長閑なマラムレシュ地方の風景にさらなる優しさを添え訪れる者の心を和ませてくれる。家畜が厳しい冬を生き抜くための貴重なえさとなるこの草山作りは夏の間の大事な仕事のようだ。木造教会や凝った彫刻がされた木製門を構えた家のある村々を通り抜けると、次なる国ウクライナへの入口が見えてくる。

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世界一の美人の国と聞いていたためいつになく緊張が走る。イミグレ職員のおばちゃんは早速その噂に違わぬ容姿の持ち主で、押してくれた入国スタンプさえも美しかった。旧ソ連の国々のスタンプがひっかかるのか、理由は分からないが特にトルクメニスタンのスタンプに彼女は異様に反応していた。クリミア、東部問題とロシアとの関係で揺れるウクライナ。緊迫しているロシアとの情勢を反映しているようだった。出入国スタンプは貴重な記録なので、このおばちゃんのように美しく押してくれとは言わないけれど、せめて読めるようには押していただきたいと、パスポート上の解読不能なスタンプや逆さまに押されたスタンプを見ながらそう思う。

stamp

ukraine

putin

国境を越えても同じ紅葉色のカルパチア、紅葉末期を迎えても景色はまだまだ美しい。ザカルパチア州の田舎道を走っていると後ろから自転車に乗ったキリルという青年がついてきた。「カフェでも飲んできなよ」 並んだところでそう誘われ、10分後にはカレネという村にある彼の家で奥さんのヤナが用意してくれた軽食を前に寛いでいた。「泊まっていけばいい」と彼は言ってくれたけど、この日まだ走り始めて間もなかったことに加え、気温が下がらないうちにカルパチアを越えたいと思っていた僕にはその気はまったくなく、理由とお礼を伝えて立ち上がった。「今夜はボルシチ作るんだけれど」 ヤナが呟くように言ったこの一言で靴ひもを締める手が止まり、聞き覚えのあるその名前の料理を思い描く作業が頭の中で始まった。しかしイメージが湧いてこない。この時点で間違いなく僕はそれを目にしたこともその味を体験したこともなかった。そしてその5分後には2杯目のカフェを前に再び僕がソファで寛ぎ始めていたのは本当の話です。本場ウクライナで人生初のボルシチに出会えるとあらば泊まっていかないわけにはいきますまい。それが街中ではなく田舎でそれも美しい自然に囲まれたカルパチアの家庭においてならば尚更にそう思えた。

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Carpathian road


2人にはウクライナ語の簡単な挨拶とキリル文字の読み方を教えてもらった。字に音がつくと意味がわかる単語がたまにある。ウクライナ語、ロシア語には英語や他の言語と共通する単語があったりするからだ。読み方を習って看板に書かれた言葉や標識がなんとか読めるようになり、それ以降のウクライナ、ベラルーシでは俄然旅しやすくなった。なんでもっと早くに学ぼうとしなかったのかと中央アジアやコーカサスでの自分の怠惰が悔やまれた。それともキリルにキリル文字をこの地で習えたのはちょっとした運命だったのか。

Cyrillic letter

pharmacy

ボルシチを拝む前に庭の草刈りとくるみ採り、ボイラー室内での薪割りを手伝う。落ち葉を鍬で集めれば枯れ葉の下にたんまりとくるみが自然と集まっているため一石二鳥。カルパチアでもガスストーブを使用している家庭は多いようだけど、キリル家では薪ストーブを使用しているため、ロシアによるガス供給停止やガス代金の値上げに苦しむ国内にあっても幸い彼らの生活への影響は少ないようだ。ただ2014年2月の政変後の通貨フリヴニャの暴落で輸入品の値が跳ね上がり、インフレが横行しているウクライナ。外貨で旅する旅行者にはヨーロッパにいるとは思えないような有り難い価格で物が買えサービスが利用できるのだけれど、ここで暮らしがある人々には深刻な経済状況が続いており、それは自然の中で暮らす彼らにとっても直接的でないにしろ例外ではない。

walnut

stove

ちょうど一年前だというカルパチアの森での結婚式の映像を見せてもらいながら、ボルシチやヴァレ二キ(ウクライナの餃子)といった郷土料理を頂く。ボルシチは牛肉でとった出し汁にすりおろしたビート(赤いテンサイ)と数種の野菜を入れよく煮込んだスープ。ビートルートの赤紫色そのままの甘いスープはべらぼうに旨かった。その後何度か国内外で食べる機会があったけれどそれらはこの晩頂いた幸の足元にも及ばぬ味だった。食後、キリルは結婚一周年記念で作ったというヤナへのラブソングをどういうわけか自分にも聴かせてくれた。親指を立てて「ヂァークユ」とお礼を伝えた僕の顔には ”2人のときやればいいじゃん” というような失礼なことはもちろん書かれていなかったはずだ。結婚式場となった森が自分が前の晩テントを張っていたすぐ裏だと判明、なんたる偶然とお互いにこのとき思って笑っていたけれど、後から考えれば、だからこそ僕はその場所にテントを張ったに違いない。2人が式場に選ぶほど美しい場所だったのだから。

wedding

borscht

varenyky

畑を挟んで隣の建物に住むキリルのおばあちゃんが翌朝の出発前にチャイに呼んでくれた。庭のベンチに座りながら、まるで僕が言葉を解せるかのようにたくさん話をしてくれ、僕もうんうん頷いていたけど正直さっぱり言っていることが分からなかった。わかったのは旦那さんは亡くなり、息子4人娘4人の8人の子どもがいることだけ。 ”旦那さんはあちらにおられるんですね” と、指で空を差して手振りで確認すると、おばあちゃんは下を向いて土を指さした。なるほど、彼女らの信条には生まれ変わりという概念はないということなのか。最後にばあちゃんにきつく抱きしめられた。言葉の壁をぶち壊すのに十分だった。”ここに居てよかったんだろうなぁ”と少なくともそう思えた。

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11月4~6日にかけて3つの小さな峠を越えカルパチアの山越えを終えた。峠道に雪はまだなかったけれど日の当たらない場所はすでに凍結しており、それに気付かずスピードを出したままスリップして派手にぶっこけた。車が後ろからやってきたため、右膝と右手に激痛と痺れを感じながらもなんとか立ち上がり、ポーカーフェイスで平静を装っていたけれど、車が見えなくなったその瞬間、赤ん坊のように顔をしわくちゃにして泣きそうになっていた。

山を越えたところで急激に寒気がやってきて今にも雪が降りそうな空気になった。この日、日中1度まで気温が下がり、ペダルを止めて羊毛靴下をペラペラ靴下に重ねて履いた。厚みで靴がパンパンにはち切れそうだったけれど、凍てついていたつま先がだいぶ楽になった。「もうじき雪が降り始めるから」と、ばあちゃんは手編みの羊毛セーターと羊毛靴下をもたせてくれていた。キリルとヤナからも2人の名前がかかれたキーホルダーのお守り、カルパチアの森で摘んだハーブなどたくさん頂きものをしてしまった。氷点下の夜もこの香り豊かなハーブティーが体を温め疲れを癒してくれた。

carpathian gift

charm

樺太とほぼ同じ緯度にあたるウクライナの11月は日出が7時前後で日没は17時頃。といっても、気持ちよく日が出てくれることは滅多にない。基本天気が優れず、木々は枯れあまりに寂寥としている晩秋から初冬にかけての東欧。カルパチアを越えてからはベラルーシで雪一面の景色の中に身を置くまで、一度も美しい風景を見つけることはできなかった気がする。朝晩は冷え込み、結露も激しいのでテントの設営はなるだけ東側に朝陽を遮るものがない場所を選ぶのだけれど、朝雲は重く太陽を包み隠しそれが報われることはほとんどなかった。ウクライナ正教の教会も季節が違えば緑に映えてもっと明るく見えてていただろうに。

road

fallen leaves

bridge

church2

church

首都キエフではジョージアのバトゥミで出会った芸術家トリックを訪ねた。トトロスタジオと名付けられた彼のアトリエは、芸術家たちが好んで住み中心部とは違った雰囲気を醸し出しているポディールという地区にある古いビルの5階にあった。キエフ滞在の前半、僕はこのスタジオ内にテントを張らせてもらっていた。スタジオ内にある彼の作品の多くにはウクライナの抱かえる葛藤、不安、不満といった感情が暗に表現されている。

tolique

ttr stadio

T's art crimea

2014年2月、キエフの独立広場で起きた親欧米派市民によるデモにより親ロシア政権が崩壊。この政変後、ロシアはクリミアに侵攻し一方的にロシアに編入した。西部にあるリヴィヴのドミトリーにいたとき、クリミア内にある特別市セヴァストポリから来たという旅行者が隣のベッドに寝ていた。交わした短い会話の中で、編入後ロシア国籍のパスポートに変わり、通貨はルーブルに変わり、クリミアから出る際も”出国”扱いになり多くの時間がかかったと彼は話していた。クリミアに続いて同国東部のドネツク州、ルガンスク州でもロシアへの編入を求める分離・独立派が独立宣言し、革命政府軍と親ロシア派武装勢力の間で紛争が続きこれまでに多くの難民、国内避難民を出している。ウクライナの人口の2割程度を占めるロシア人の多くが南部、東部に住み、ロシア語を母語とするウクライナ人もそれらの地域に多く暮らしている。加えてロシアにエネルギーを依存していることもあり問題はとても複雑。ソ連崩壊後もオレンジ革命後も今回の政変後もウクライナはロシアとの関係に常に揺れながら民主化への道を模索している。

tolique's art

tolique's art

紛争地を除けば争いが起きていることなど全く感じることなく普通に旅することができてしまう国内。自分の持つ浅い国内事情に対する理解では、トトロスタジオに置かれた彼の作品に深く感情移入することは正直難しかったけれど、少なくとも出国を前にして、母国の行く先を案ずる彼が作品に込めた想いを計り知ることで ”起こっていること” に注意を向けることができたことはせめてもの救いだった。窓の外では水分を多く含んだ雪がキエフの街に降り始めていた。

building

snowny kiev

12月8日、無事にベラルーシ入国を果たし最初の州ゴメリに入った。モスクワ時間(+3)が採用されているのに気付き、手元の時計が伝えている時刻を一時間進めたのはやはり何日か経ってからだった。西隣のポーランド(+1)から来たならば2時間の時差が生まれることになる。ヨーロッパの国々でモスクワ時間を使用しているのはこのベラルーシだけではないかと思う。

beralus

sign board

ベラルーシ南東部にあるゴメリ州は、旧ソ連時代1986年に起きたチェルノブイリ原発事故(現ウクライナ領)による放射能汚染が最も酷かったところ。風向きの影響で放射性降下物はこの地に多く降り注ぎ農地も大きな被害を受けた。今もたくさんの人々が暮らしているけれど、州内には居住禁止区域が存在しており、事故後強制的に移住させられた人々も多い。州都のゴメリの町を離れてから同州走行中は、田舎の商店での産地不明な野菜を購入するときは少し怖かった。事故が起きたのはもう30年も前のことだ。農家の人々が汗水垂らしながら育てた何の問題もないであろう野菜を疑いの目をもって見なければならないのは申し訳ないことだった。

chernobyl

houses

僕が旅した2015年12月時点でレジュラーガソリン1リットルは約11,000ベラルーシ・ルーブル(当時レート約75円)で売られていた。ちなみにウクライナでは当時約18フリヴニャ(同約100円)、EU加盟の隣国のリトアニアでは1ユーロ(同約130円)とベラルーシの倍近い価格だった。ベラルーシはヨーロッパで一番ガソリン価格が安い国かもしれない。この低価格をもたらしているのはもちろんロシアとの結びつきの深さなのだろう。

horse wagon

castle

tent

民族主義の感情が高まりロシア語を公用語からはずそうとする動きさえあるウクライナとは対照的に、ナショナリズムを自ら否定するかのように親ロシア政策を取っているベラルーシ。ベラルーシ語を実際に生活の中で使用している人はほとんどおらずもっぱらロシア語が国内では話されている。

sunset

首都ミンスクではそんな国を嘆く民族主義活動家のカイ(仮名)との出会いがあった。彼女はトリックの奥さんの友人でキエフにいるときからお招き頂いていたのだけど、ミンスクではビザ取得の際予約してあったホステルに滞在する予定だったのでそう伝えていた。ところが、雪原を貫く道を数日走ってようやく着いたホステルはモスクワから来たテコンドーチームのちびっこたちにベッドも通路も占拠されており、大会が続く翌日からはまさかの満ベッド。装備を乾かすスペースもなく疲れもとれないままに、翌日街の反対側にあるカイ宅へ自転車で向かっていた。10月広場には大きなクリスマスツリーが立っている。整然とした都市ミンスクは予想に反してなかなかに心地良く、空間に恵まれた静かな首都だった。

minsk

Lenin

minsk

「あなたがバッグにつけている国旗はロシアの侵略の証よ」 カイに会ってすぐに言われた言葉だった。聞けば現在のベラルーシ国旗はソ連邦内の共和国だったときのデザインをほぼそのまま受け継いでいるものらしく、カイが国旗と認めるのはそれ以前に使用されていたものらしい。ルカシェンコが大統領に就任してからこの国はおかしくなったと彼女は続けた。ヨーロッパ最後の独裁者と呼ばれるルカシェンコ大統領は1994年から現在まで権力の座に居座り続けており、ロシアとの関係を重視した政策をとっている。政権批判、大統領批判は身の危険を意味し、国民は表現の自由を許されていない。

stalin

ussr

“国立の学校で決められた教科を勉強するだけの一様な教育ではなく、人の内面を豊かにするような自由なスタイルの学びの場を子どもたちに提供するための学校を設立したい”

カイはこの社会主義政策化の国でそんな理想を持ってやっきた。過去にその思いにのっとって、子どもたちの集いの場を設けたことがあるようだけれど、政府の意向に沿わない行為とみなされ当局がやってきて活動停止を余儀なくされたらしい。カイは子ども向けの本などを手掛けるデザイナーのようだけど、現在は仕事を休んでおり、水面下で再び非公式の学校設立に向けた活動に専念しているという。具体的には有志を募ったり、資金の援助をしてくれるスポンサー探しといったことらしい。電話やネットの通信内容は国家保安委員会(ベラルーシKGB)の監視下にあり、常に危険を伴うようだ。カイがどのようにそのような呼びかけを発信しているのかはよくわからない。「もし、この国が変わらない、この国を変えられないようならば他の国への移住を考えるしかない」 カイはそう言っていた。

Putin e Lukashenko

別の日、7歳になる娘マルタ(仮名)を迎えにカイと一緒に学校へ歩いて行く途中、カイはマルタが以前見た夢の話をしてくれた。マルタがカルパチアの森の中にあるお城でお姫さまとして暮らしているという内容の話。興味深いのはマルタはカルパチアにまだ実際に行ったことがないということ。カイ自身がカルパチアを好きなことと、またマルタの見たその夢のこともあり、将来彼女はマルタとカルパチア(ウクライナ)に住みたいとも可能性的に本気で考えているようだ。この国で国体に反した理想を持ちそれを実現することがどれだけ難しいことかということをよくわかっているのだろう。そして彼女の活動は他の誰のためでもなくマルタの将来を思ってのものだ。ウクライナは言語やビザ面での事情を考慮しても彼女らにとってもっとも現実的な移住先なのだと思う。教室に入ると授業を終えてお友達とおしゃべりしながら待っていたマルタが自分に飛びついてきた。子どもが無口な自分になついてくれることは大変稀なもので戸惑いながらも当然悪い気分はしなかった。

だるまっぽい

夢の話を聞いた夜、キリルとヤナにもらったカルパチアで採れた葉や花でハーブティーを入れて差し出すと、その前の晩僕が作った肉じゃがのときには見せてくれなかった幸せそうな微笑みをマルタは返してくれた。

翌朝は未明から出る必要があっため、残りのハーブを寝ているマルタの枕元に置いて出発した。日本再出発前、友人が持たせてくれた華やかな友禅和紙でその香りを優しく包み込んで。マルタはこのときもカルパチアのお城の庭の中でも歩いていたのかもしれない。彼女もいつかヤナのように錦秋のカルパチアの森でお嫁さんになるんだろうか。

white landscape

white landscape

ビザ期限日当日の12月25日、日没後の薄明かりの中で予定していたリトアニアへの国境に着いた。他に越境者は誰もおらず国境は閑散としている。期間内に走りきれた達成感とベラルーシとのお別れにしみじみとしたもの感じていた。やっと出てきた少し驚いたような表情の職員たちにパスポートを見せると、「ニェット」であり「ニモジナ」であるからして、つまり、「お前(外国人)はこの国境を越えることはできんのじゃパタムーシト」と言っている。代わりに案内された自転車で越境できる国境までの距離はそこから50km。初めて聞いたベラルシアン・ジョークはなかなかに斬新で面白かった。笑えなかったのはそれがジョークではなかった点だ。

map and design

街灯のない真っ暗道をヘッドライトの明かりを頼りに進む。雨が降り出すとお次はパンク発生、路脇のドロ地を避けてチューブに開いた穴を探す。こんなときに限ってライトの照度が弱く、またオーバーステイの文字がチラつき焦ってしょうがなかった。途中唯一あった町の住宅街には鮮やかな電飾のライトが点灯しており、家々ではパーティーが行われているようだった。正教のクリスマスは1月7日のはずだけれど、国境付近にはカトリックの人々が多いのかもしれない。案内された国境に着いたとき、時刻は23時を回ったところだった。めでたく出国を許可され、ロシアによるベラルーシ侵略の証をバッグから剥がすと、まもなく僕はリトアニア領の茂みの中へと消えていった。この年の、長く、慌しく、そして静かなクリスマスの夜の記憶は今に残っている。

at dark

僕が眠っていたこの秋と同様、東の空の下で続く争いとは対照的な静かな時間がこれからもずっとカルパチアの森には流れていくことでしょう。10年後、その森にキコリとして移住し、ミンスク出身のお姫さまと偶然を装った再会を僕が計画していることは内緒でお願いします。キリルの新しいラブソングが聞こえる前に、森が錦色に染まる前にハーブをたくさん集めておこうと思います。

red yellow field

smile from minsk



@Whitehorse/Canada
August 2016

Reached the “Great One” I have long wanted to meet. Her body was whitest among numerous peaks I have seen the last few months. And that night and the previous night and even miraculously the following some nights as well, something, totally new to my life, gradually started to be above my tent and have several shapes in sequence then finally started dancing after a while. I just kept staring at the event in the sky beside a natural fire without taking out my camera. Either night was already freezing as early as the end of August. Stars were twinkling as brightly as they could around the scene. I can’t tell well how but I knew in advance it would happen that first night, though it was absolutely my first experience of northern lights.

Greeting from Alaska with views of Mt Denali, the highest peak in North America.

denali at dusk


               posted on facebook / 6th September 2016


2016年8月末

どうもお久しぶりです。約3ヵ月前、バンクーバーから北米走行をスタートし、現在はアラスカを走っています。先日、長らくお会いしたかったデナリさんについに出会えました。カナダからアラスカにかけての道中、たくさんの白雪を頂きに被った高峰を見上げてきましたが、やはりデナリの白はもっとも白く、悠々とその場に聳え立っておりました。そりゃそうでなくちゃいかんのだと思います。なんせ北米最高を誇る高峰ですから。澄み渡った青空がその白をさらに白く引き立たせておりました。晴天がくれた貴重な時間を大切に走らせてもらいました。デナリを初めて拝んだ日の前の晩、オーロラが空に現れました。星が妙にキラキラした夜で、僕はオーロラを見たことがないのにも関わらずそれが現れることが前もって分かったんです。空で繰り広げられる不思議な現象を焚き火の音を聞きながら横で見つめていました。8月28日から翌日にかけての寒い晩のことでした。8月の終わりからこの地にはすでに氷点下の夜が訪れています。

アラスカより
デナリ山の雄姿とともに

park rd


                    2016年9月6日 facebook 投稿挨拶文



brown bear

leaves

frost

pond

glacier

moose

denali view

the place I saw first northern lights.
the place I had first experience of northern lights (beside the windy creek off the Denali hwy)





Days in winter Yukon. I'm staying at my friend's place in a village of Yukon. I will be here until spring come while seeing the life of people and learning the way they coexist with nature.

今年は早めに11月12日で走り納めをしました。カナダのユーコン準州にある村での越冬滞在も早いものでかれこれ1ヶ月以上が経ちます。12月に入ってから一昨日までの2週間強、朝夕の気温が-35度前後(日中-25度前後)と冷え込み氷霧という北国らしい現象が毎日見られました。一転して今日は日中-10度近くまで上がったため、歩いてすぐの湖に2回目の氷穴釣りに出掛けました。気温が上がったといっても湖上で浴びる北風にすぐに体を冷やされてしまうので、テントを張って風を防ぎその中で穴に糸を垂らします。それでもじっとしている寒くなってくるので外に出て穴開けをして体を温めます。釣り場の氷の厚さは現在40cmほど。前回11月末時の倍の厚さです。クラッシャーでひたすら打ち砕いて穴をあけるのに非力な自分だと15分くらいかかります。その頃には良いあんばいに体がぽかぽかとあったまっているわけです。

hole

fighting

数分間の闘いの末、アダムが大きなトラウトを氷上に釣り上げました。10kgあるとびきりの大物です。合戦の最中、穴下の魚眼がリールを回す男の横で雄叫びを上げているもう一方の男の姿を捕らえていたかは定かではありません。いやぁ闘ってもいないのに大興奮してしまいました。あらをもらってスープにして食っちまおうと思います。

Adam's great one
Adam, my Sensei of ice fishing, got a “great one” in a frozen lake.

12月半ばを過ぎた今、10時を過ぎてようやく昇った日が沈むのは15:45。思えばユーコンに入りこの地を訪れたのはちょうど夜でも明るい夏至の時期でした。当時の僕にはさらさらそんなつもりなかったんですが、縁あって冬至もこの地で迎えます。人生わからないものです。

holes

tent

 


  
え~、結局投稿できずに日付が変わりまして、、本日もう2匹。
仕掛け枝竿にまたまた大物が。

juniper's great one
Juniper got a “great one” too


今日は僕も闘いました。
前出の2匹に比べえらく小物ですが、それでも4kg、十分です。

my small one
A smaller trout bit my baited hook. It’s still enough big for me though. Excited.

にんまりしていますね。
こんな良い表情はなかなか自然にできるもんじゃありません。

with my rod gifted by Woody K
<アラスカで出会ったウッディーKさんに頂いた釣竿で>

日中は-3度まで上がり、南からの風が心地良い温かい一日でした。



●うっかり宣伝を忘れるところでしたが、本日12月20日発売のサイクルスポーツ2月号に他の自転車旅人に混じって近況報告として記事を掲載して頂いています。よかったらご一読を。

それでは、よいお年を。



@wintering village/Yukon


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hiromu jimbo

Author:hiromu jimbo
I'm in a challenge to cycle around the world
since May 2009,started from Istanbul,Turkey.
Motivation for this journey just comes from big curiosity about the world.I'd like to see and feel the ordinary life of the people living in defferent cultures.

2009年5月末イスタンブールより
自転車世界一周挑戦中です。
世界で起きていることへの大きな好奇心がペダルを回しています。その土地で生きる人の日常生活を見ていけたらと思います。

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my journey
*special thanks to sekiji-san

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68,781km (May09-May14)
36,938km (July2014- )

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