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2021年7月中旬 

6月10日22時半に、チリのサンチアゴを発ってから、ずっと太平洋上空を飛んでいたため、自分が座っていた進行方向左側の窓から初めて見えた陸地はパナマの夜景でした。登頂したバルー火山で拝んだご来光、カリブ海で釣り上げた魚のこと、心を折られたコスタリカの激坂に、太平洋カリブ海両側の背の高いヤシの木が揺れる美しいビーチの風景などなど、現地で過ごした時間が思い起こされました。乗客はまばらで、1列に9人が座れる座席には1人乗客がいるかいないかといった具合。スカスカの状態で飛んでいるので、乗客たちが席を離れて3つ並んだシートの肘掛けを上げてベッドにして横になって眠っている機内の様子は、航空会社にとってどれほど今が大変な時期であるかを容易に見てとることができるものでした。

11日午前8時過ぎ、経由地である米国アトランタ上空。雲間から景色が再び見えるようなると飛行機はゆっくり高度を下げていきます。夏のアトランタは、冬の南半球からやってきた分、余計に暑くて、羽田便の出る搭乗ゲートまで歩いていくのに、サンチアゴの空港で預け荷物の規定重量超過防止対策で、預け荷物にせず、着込んでチェックインした羊毛セーターやらフリースなどの衣類を7枚羽織っていたため、汗だくになってしまいました。

およそ3時間後の午前11時半、アトランタから東京まで約12000kmの空の旅が始まりました。機内は相変わらずガラガラ。顔立ちから察するに、おそらく乗客の大半は米国在住の日本人。このパンデミック禍、米国外から乗り継ぎで来て日本へ行く人は少ないだろうし、チリはおろか、南半球から日本へという人も僕だけだったのではないかと思います。客室乗務員に英語で何か訊ねられても、イエスではなくスィが、サンキュではなくグラシアスが最後まで無意識に出てきてしまいました。米東部を離れると、聖山ブラックヒルズやラコタ族が居住するパインリッジ保留区などを訪ねて駆け抜けた中央大平原が広がります。冬期に越えることとなった思い出深いロッキー山脈は、残念ながら雲がかっていて何も見えませんでした。目が覚めて窓のカバーを開け外を見渡せば、もう太平洋上空を飛んでおり、機内からはブリティッシュコロンビア、ユーコン、アラスカにかけて環状に180度雪を頂いた山々が連なって見える絶景が。どこもかしこも自分が自転車で走ってきた土地土地。白に輝くベルーガクジラや、壮大な氷河を目の当たりにしたアラスカのキーナイ半島、コディアック、そして、アリューシャン半島の付け根まで、やがて雲に視界を塞がれてしまう前に、窓に額を押し付けながらなんとか見届けることができました。パンデミックでの中断含め、5年かけて自転車で走ってきたアメリカ大陸の道程を、帰国前に、空から遡って味わうことができるだなんて、なんと気の利いた粋な贈り物であろうかと思っておりました。飛ばせば赤字というような状況の中で、分断された世界と世界が、そして人と人とが繋がれる機会を提供し続けてくれている航空会社とその職員の方々のおかげで、地球の裏側にいる家族友人たちと再び会うことができることに、終始感謝の気持ちでいっぱいでした。

4月中旬。チロエ島のキャンプ場を出て、パタゴニア走行を始めて数日後、アイセン州の州都コジャイケに着いたとき、前の月に予約しておいた6月14日発予定のフライトが、何の説明もなくキャンセルされたとのメールを受け取ったときはとても慌てました。4月初旬に急遽、感染防止策として、チリ政府が特別な理由なしでのチリ人の出国を禁止したことを知っていたので、航空会社及び代理店から説明が一切なくとも、事情は察することができました。パンデミックが始まって以来、ただでさえ航空便の欠航が相次いでいるなか、ネットを検索して出てくる便は、さらに激減。非常によろしくないインターネット環境の中、夜通しかけてなんとか予定を狂わされることなく、幸運にも近い日にちで予約できたのが6月10日発のデルタ航空の便。ほっとしましたが、この便に関してもまたキャンセルされてしまわないだろうかと、パタゴニア走行中、不安は絶えることがありませんでした。

6月12日14時頃、デルタ航空295便は定刻より30分ほど早く、羽田空港に無事着陸しました。機内から出ると、じめっとした暑さに捕まえられ、すぐに汗ばんできました。7年ぶりの日本。自動販売機が並ぶ通路。知らない俳優・スポーツ選手ばかりの種々の広告。ウォシュレットな公衆トイレ。蒸し暑くて衣類を着込んで歩くことなどとてもできないため、両手で抱えきれないほどの衣類を何度もフロアに落としながら、空港内を歩いて移動します。

検疫所からの質問票、誓約書の他、チリ出国及び米国出国時に提示したものと同じ、すでに72時間の有効期限の過ぎているPCR検査陰性証明書を提示したあと、唾液採取によるPCR検査の受検といった流れで空港内をぐるぐる歩かされます。事前にインストールしておくことが求められていた、隔離期間中に必要なビデオ通話のためのアプリや位置情報確認用に必要なアプリがスマートフォンにインストールされているかのチェックやボランティアスタッフによるそれらアプリの設定説明などのプロセスを経て、待合所でさらに1時間も待っていると、PCR検査の陰性結果を受け取ることができました。

自転車の入ったダンボール箱含めた預け荷物一式を受取り到着ゲートへ。通常、迎えに来た人々でごった返している到着ゲート前は閑散としており、寂寥感漂う到着フロアが広がります。事前に自分で予約していた隔離用のホテルへは、公共の交通機関(国内線飛行機、電車、バス、タクシーなど)を使用することは許されないため、警備中の警察官に断ってからトイレ横で大きな荷を広げ、自転車組み立て及び荷物パッキング作業。その後ろには”東京オリンピック2020”と書かれた、この時点で開催されるのかさえ未だに懐疑的な、翌月へと迫ったスポーツの祭典の展示がされていました。たまに通るマスク姿の通行人の中には話しかけてくる人は誰もいません。海外ならば、質問攻めに遭ってもおかしくない状況です。いろいろなことが次々と起こる”日常であった非日常”から帰ってきたことを実感し、帰国早々に軽い旅シックのようなものを感じました。

旅の疲れと空腹のなか作業を続け、すっかり暗くなってしまった時間に、チリ国旗を付けたままのフルパッキングの自転車に跨り、ようやく空港出発。イギリス走行ぶりの左側通行。海からの風が心地よく、意外に快適な東京の道。サイクルレーンや自転車利用者のことを考えた標識標示が、この数年でずいぶん整備されたものだなと感心しました。予約した隔離用ホテルにチェックイン。往復して荷物を部屋に運び、浴槽に湯を溜めて肩まで浸かります。ペルーで浸かった温泉ぶりの湯舟は気持ち良すぎて浴槽内で眠ってしまいました。

滞在中は、インストールしたアプリを通じて厚生労働省の入国者健康管理センターから現在地を報告するようにとの通知が1日に複数回来るので、その都度報告。他には、メールによる健康状態のチェックと、同管理センタースタッフからのビデオ通話による居所確認が2週間毎日ありました。

隔離期間を終え、やはり気持ち良い風が吹く、広々とした多摩川沿いを上流に向かって快走。60kmほど走り日没前に相模原の実家に到着。ドアホンを鳴らすと、初めて顔を合わせる5歳の甥が一番に走って出てきて、「ひろくん、ひさしぶり!」と声をかけてくれ迎えてくれました。歳をとった父母は階段の上り下りが辛そうですが今も健在でいてくれ、兄夫婦も、すっかり成長した二人の姪っ子も元気そうです。旅を始めたとき、まだ生まれていなかった上の姪は11歳になり、もう立派なお姉さんといった風です。

数日後、机の引き出しを整理していると、世界旅行の計画書や旅を始めるにあたって、当時暮らしていたアパートの部屋や北海道大学の図書館などで調べものをしていたときの記録が出てきました。あの頃の、未知の世界に対する希望に溢れ、不安でいっぱいで、興奮みなぎる気持ち…。思いがけず触れることとなった20代の自分が抱いていた旅に対する強い思い。その夢実現の旅の終盤に差し掛かったところで帰国を余儀なくされた今、それを見る40歳となった自分。やはりこのままでは終わることはできない、その思いを再確認することができました。保留となった夢実現の旅。生まれる新たな夢々。さあ、これからどのように生きていこうか。いろいろな選択肢を考えながら、元気な甥と相撲をして過ごす、7年ぶりの日本の梅雨です。



※7月中旬JACC投稿近況報告文より

@Japan

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carretera austral con el sol



2021年4月8日~6月10日

17時40分前後に日没を迎え、もうずいぶんと暗くなった18時頃、オイギンスの町に戻ってきた。複数あるキャンプ場はどれもパンデミックとシーズン外で閉まっている。早朝去るようにすれば、屋根のあるところで勝手にどこでも寝れそうだけれど、外出禁止令下、町中では勝手にというわけにもいかない。閉まっている空港オフィスの建物の前の屋根付きスペースにテントを張れないものだろうかと警察に相談しにいってみると、市が開かれる広場にあるフォゴン(囲炉裏のある小屋) を厚意で使わせてもらえることになった。パンデミックで集会が禁止されているため、5ヵ月間使用されていないようで埃だらけだったけれど、屋根に水、電気付きで雨も風も防げるなんともありがたい物件だった。2泊させてもらい、相変わらず雨が続く中、コクランへのバスの出発を濡れることなく屋根下で待つことができた。バスの乗客は他に誰もおらず、自転車を分解する必要さえもなくトランクにそのまま載せてもらえた。

dos noches en un fogon

glaciar detras del fogon

5月3日朝、氷点下5度。10日ぶりに戻ったコクランは凍てついていた。誰もいないキャンプ場の共有スペースにマットを敷いて寝袋に包まっていた。恵みの快晴で、太陽光で霜が溶け始めたころ、自転車に乗ってタマンゴ国立保護区へ歩きに出かける。なんでも、フエムルというチリとアルゼンチン固有のアンデスシカに出会えるチャンスが最も高い場所らしく、出会いを楽しみにしていた。町から数キロ離れた保護区への入口へと着くと、休区日とのことだったけれど、オフィスで番をしていた心の広いおばちゃんがタダで通してくれた。コクラン湖の水も澄み切っていてとてもきれい。釣りで有名な湖らしく、コジャイケのロベルトも例年ならお客さんを連れてよく来るそうだ。森を抜けながら、湖に沿って6時間近く歩くも、フエムルは姿を現してはくれなかった。

escarcha

cochrane

verde

lago cochrane

明くる日、先日走った同じ道を走ってプエルト・ベルトランドへ。方向と天気が違えばとこうも印象が違うのかと天候の重要性を再確認しながら、往きと違って雲が除けた街道を新鮮な気持ちで走れた。その翌日にはアウストラル街道を外れ、ヘネラル・カレーラ湖南湖岸を走るチレチコへの道を進む。プエルト・グアダルの町に着き、昼食用のパンなど調達に商店に行くと、前でテレビ番組の撮影が行われており、トゥクトゥク (三輪タクシー) に乗った夫婦とその子どもがインタビューをされているところだった。大量の荷物を積んだ僕の姿を見て取材陣が話しかけてきた。彼らのあと僕にも続けてインタビューしたいという。このエドワルドさん一家はメキシコのケレタロからトゥクトゥクで1年だか2年だかかけてやってきたらしい。なんでも3人は昨年3月、ここグアダルの町でパンデミックに巻き込まれ、商店の方の厚意で空き部屋の提供を受け、もう1年以上もそこで滞在しているそうだ。彼らも国境が開き、前に動き出せる日を待ち続けてきたわけだけれども、今ではどのようにして国に帰ろうかと考え始めているようだ。僕や彼らと同じような状況の人たちはこの世界にたくさんいるのだろう。

mosqueta

carretera austral en un dia nublado

4月初旬、このパタゴニアの旅に発つ直前に、ケジョンのキャンプ場で会ったのは、チリ中部太平洋沿岸のビーニャ・デル・マルから車でやってきたセバスチャンとアレハンドラのカップル。2人は同月半ばにワーキングホリデービザでニュージーランドへいくつもりだった。2週間前に家と仕事、家族と友人にサヨナラして故郷を出た直後、チリ政府がコロナウイルス感染症予防対策からチリ人の出国を禁止したため、渡航できなくなり、大旗を振って出てきた手前、地元にも帰るに帰れず、何かに背中を押されるようにして南へと向かい、パタゴニアへ住む場所を探しにやって来た。今ふたりはプエルトシスネスにアパートを借りて住んでいる。また、コクランで出会ったフェルナンドとステファニーは、計画していた船旅の渡航予定先であるプエルト・ナタレスが、5月初旬から警戒レベルをフェーズ1に引き上げられてしまったために、突如、マガジャネス州住民以外は乗船を許されなくなってしまい、直前でマガジャネス行きを断念せざるを得なくなってしまった。現在はビジャオイギンスで働きながら越冬し、春を待つ計画だ。彼らとの出会いは、パンデミックがどれほど多くの人々の人生をいたずらに狂わせているかということを改めて認識させてくれた。

crema para mano se llegaro de la familia de tuktuk

彼らのあとに3分程度の簡単なインタビューを受け、役目を終えて町を発つ。去り際、自分の切れて荒れた手指を見てたった今薬局で購入してきたというレタスとレモンエキス配合の肌クリームをトゥクトゥク一家の息子のラロくんとお母さんが手渡してくれた。

manana helada

carpintero

キツツキが木の幹を突くのを拝みながら森を越えると、きつい湖岸沿いのアップダウンが果てしなく続いた。透き通った湖に対岸の山々が映える壮大な景色が続くのだけれど、単純に辛く、景色を楽しむ余裕があまりなかった。アウストラル街道も丘越えの連続ではあるものの、きついと思うような場所はあまりなかったように思う。しかし、アルゼンチンとの国境に位置するチレチコの町へと続くこの道は、街道とは幾分種の異なる道であるような気がした。汗だくになりながらこの湖岸を抜けると、森林限界を越え、高木の生えない乾燥したパンパの風景に変わった。この植生の劇的な変化を身を持って体験できることこそが、この湖岸道をゆく何よりのご褒美に違いなかった。サボテンなどの棘のある植物の生える低木の中を馬や牛が歩いている。夜は寒くて洗う気にはなれないので、綺麗な小川の水で頭を水で洗ってリフレッシュ。濡れたテント類も河原で乾かすことができた。

lago general carrera

pampa

ibanes

5月8日、チレチコから船でヘネラル・カレーラ湖を渡って、ポプラと松の防風林に覆われた対岸のプエルト・イバニェスへ。この町からは、約700㎞ぶりに舗装された道に変わった。翌日は快晴となり、絶好の峠越え日和。セロ・カスティージョの町には、例年なら4月末には初雪が降るらしいのだけれど、この年は山に降っても町にはまだ降っていないようだった。標高1200mほどの峠の前後には、1kmほどに渡って道路上に薄い雪氷の膜が張っており、強風の中、すべての衣類を着こんでゆっくりゆっくり下っていった。3週間前は紅葉の盛りで目を奪われるほどの鮮やかさであったのに、落葉樹の葉はもうほぼすべて枯れ落ちていて、写真に収めておきたいと思える景色も見つからず、おかげでスイスイと進んだ。

camping por gratis con suerte

cerro castillo el 9 mayo

5月13日、オルテガの町を発ち丘々を越えていくと、一か月ぶりに大好きなマニフアレスに戻ってきた。ポプラの葉がどこも散っていて、近付く冬の到来を伝えていた。ここは冬でも雨ばかりで雪はほとんど降らないらしい。キャンプ場のオーナーであるマリオとマルガリータに挨拶すると覚えていてくれて、マテ茶を頂きながら道中のことを話す。庭のりんごの木々には、僕が自信を持って、”パタゴニアで一番美味しい” と言い切れる果実たちがまだまだ残っていて、「ふたりでは食べきれないから、自由に取って食べなさい」と先月と同じようにそういってくれるふたり。先をV字にした木枝を使って、好きなときに必要な分だけ採って食べた。ここに戻ってきたら、数日のんびり滞在して休みたいとずっと思っていたので、それまでなかなかできなかったことを片付けた。0度に近い気温のなか裸になり、トイレで髪を切る。震えながら片付け含め1時間ほどでササッと仕上げた。凍てつく水に手を当てて1ヵ月ぶりの洗濯。下着と靴下とタオルくらいはそれまでに何度か洗えていたけれど、常時着用してきた衣類に付いた1ヵ月ぶんの汗、埃、汚れをついに洗い落とせた。洗っても乾かせないと着るものがないので、雨で身動きとれないとき以外ほぼ毎日動き続けていた分、洗うチャンスがなかった。貴重な薪を頂き、ストーブに火を灯し、ロープを張って洗った服を吊るして熱で乾かす。

mate

secar ropas llavadas

アイセン州では、高いお金を払って住民は薪を購入したり、自分で木を伐って燃料を賄っている。大気汚染を防ぐために、みんなできるだけ乾燥した薪を燃すようにして、煙を出さないように気を遣っている。一方でマガジャネス州では、ガスがアルゼンチン側のパタゴニアで採れ安く輸入できるため、キッチンもストーブもガス仕様である家庭が大多数で、ほぼすべての地域で州政府によるガス供給サービスが整備されており、ガス代に関しても7割だか9割だかを州政府が負担してくれるのだそうだ。同じパタゴニアと呼ばれる地域でも生活様式は地域によってずいぶん異なる。

con greg y mica

5月21日。北上する者にとっては、アイセン州最後の町となるラ・フンタの町。検問がありロス・ラゴス州へと入るのに、PCRテスト陰性証明の提示が必要で足止めを食う。3連休の週末の初日に着いてしまい、診療所が開くまで待ち、結果が出るまでさらに待つ。やはり閉まっているキャンプ場を開けてもらえ、ヒノキの木の下に家を構え、無料で6泊も滞在させてもらえた。こうやって、僕のためにわざわざ門を開けてくれ、尚且つ無料で場所を提供して頂けたキャンプ場は道中いくつかあった。当然、ガス缶はもう撤去されているので湯や火など場内のサービスは何も使えないのだけれど、僕が必要としていたのはただ一つ、雨を防げる屋根だけであったので、特に滞在中ずっと雨に降られたラ・フンタでは、木の下に居れて本当に有難かった。

abajo de techo natural de un arbol de cipres

helecho

その後もプエルトモンまでの数日間、ずっと強い雨に降られた。対岸に位置するケジョンからいつも眺めていたメリモユ、ミチマフイダ、チャイテン、そしてコルコバドといった火山たちは重い雲で覆われ、どれひとつとして姿を見せてはくれない。近くで拝めることを楽しみにしていたが、その願いは叶う気配すらない。止むことのない雨に、眺望への希望などもう完全に放棄していたチャイテンの町を発つ日の早朝、ふと気付くと、朝陽にほのかに照らされた、コルコバド山の鋭く尖った頭部が雲間から覗いていた。潮干狩りをしながら、満月光に映える雄姿を幾度となく拝んできたその美しい独立峰は、火山群の中でも特別な存在であった。僕は報われたような気持ちで、予期せぬ短い早朝ショーに見入った。

vista del volcan corcovado de quellon

vista de cabeza del volcan corcovado en chaiten

もう帰国便まで時間がないので、ゴミ袋で作ったカッパを被りながら、強い雨の中を漕ぎ続ける。感染が拡大しているプエルトモン以北では、大自然というエリアからはもう抜けるので、旅の自由度は著しく低下する。当然、規制の中で夜を越すことはより難しくなる。出国前にもう一度会いたい人々が道中に何人かいたので、自転車で走って会いに行きたかったのだけれど、楽しく旅できるイメージが持てなかったため、プエルトモンからサンチアゴまではすでにバス移動する計画のもと、パタゴニアに集中して走ってきた。自分にとってのアウストラル街道走行の終点であり、今回の自転車旅の終点ともなるプエルトモンまで、あと残すところ200kmあまり。パタゴニアの旅を、なんとか計画通りに無事完走で終えることのできそうな安堵感・満足感の一方で、数日後200km先にいる自分が、すでにこの重い自転車のペダルを漕ぐのを止めているというその事実が信じられない気持ちだった。

pude evitar viento y lluvia. muy agradecido por esta casita haber estado aqui .

en una casita pequenita en medio de lluvia pesada

en un parada de autobus

この2ヵ月弱、自転車に乗れることにただただ幸せを感じ、毎日ペダルを漕ぐことが純粋に楽しくて仕方なかった。12年間、ただ前に進むことだけ考えて、当たり前のことのようにやってきたこと。移動するという行為が当たり前にできることではなくなってしまった世界で、実際にその自由を奪われたとき、はじめて僕は自分が心の底から自転車旅が好きなのだと、すべての根幹に在るようなことに、向き合う機会を与えられたような気がする。

espero que pare la lluvia

en un refugio para pasajeros de barco

6月3日夕刻、何度も何度も雨宿りを繰り返しながら、いよいよプエルトモンの町に到着。2020年3月、世界がおかしくなり始めていた当時、それがこちらまで迫っていることに全く気付いていなかった僕は、大陸最南端に向けて突っ走ることを微塵も疑わず、この町の古着屋で防寒対策に靴とジャケットを購入して、チロエ島へと向かった。そのとき刻んだ、アラスカから続く古い轍を見つけ、今回街道南端から引っ張ってきた新たな轍をそれに繋ぎ合わせた。ケジョンのキャンプ場のオーナーの友人であるミトさんのお宅に1泊させて頂き、翌日夕方発のバスに、分解した自転車を積み込んで、1,000km北方にあるサンチアゴへと向かった。

puerto montt en la distancia

con familia de mito

ruta mia de la patagonia

パタゴニアと違い乾燥し、南から来ると春のように暖かいサンチアゴ。この町では、昨年2月道中で出会い、ビオビオ州にあるサルト・デ・ラハという滝を一緒に自転車で走って訪れた、歯科医のガロさんのお宅を訊ねた。1年4ヵ月ぶりの再会。チロエ島に着く前も着いてからも気にかけて連絡をくれ、サンチアゴにまた戻ってくることがあれば、泊まっていきなさいとずっといってくれていた。パンデミック禍にも拘らず、受け入れてくれたガロさんと家族の方々にも、本当に感謝しなければならない。

con Galo en febrero 2020

69歳のガロさんは、ピノチェト独裁時代、強権政権に友人を殺された。その後、反政府活動を主導した罪でガロさんは投獄され1年を収容所で送ることに。釈放された後の1975年、身の安全のため仲間とエクアドルのキトへ政治亡命し、以来9年間をその地で過ごした。ピノチェト独裁が未だ続くなかの1984年に帰国。診療所で歯科医として働きながら、チリの未来のため彼は仲間とともに独裁政権と戦い続けた。そんな勇敢な男、ガロさん。世界史に精通し、キトで地理の先生をしていたこともある彼は、僕の旅に大きな関心を持ってくれており、僕の旅で起きた一つ一つの出来事を、表面的にではなく、僕自身が忘れているような深いところまで掘り下げて聞いてくれるので、話していてすごく面白かった。

mi bici

6月8日。前日に自転車を解体し、近所の自転車屋さんに譲ってもらった段ボール箱へのパッキングをすでに終えていたため、ガロさんの自転車を借りて、郊外の医療機関へ国内3度目となるPCRテストを受けに行った。その帰り路、僕はそのまま自転車で町を一望するサン・クリストバルの丘へと吸い寄せられるように向かった。よく晴れた日で、大気汚染でガスった首都の東の空には、白い雪を被った山々が朝からくっきりと姿を現している。僕を丘へと誘い出したのは、まさにそんなアンデスの山々の姿だった。

virgen

全身びしょ濡れで着いたプエルトモンでは、感傷的になる余裕もないままに慌ただしく過ごすことになったけれど、高台からサンチアゴの街を見守るマリア様の彫像にご対面したとき、思いがけず、旅が終わる感覚を手にした。チロエ島、および、パンデミックのさなかに走ったパタゴニアの大自然が広がる遥か南方を見つめているように見える彼女。僕のこともきっとずっと見守っていてくださったのだろう。中の祈祷所へと足を進め、胸に十字を書く代わりに合掌しながら、無事にここまで来れたことへの感謝を伝えた。''Nosvemos'' (また南米に戻ってきます) そう最後に挨拶し、聖母の前をあとにした。

santiago



@Japan

los arboles con varios colores



2021年4月8日~6月10日

キッチン小屋の清掃には数日かかった。1年間毎日薪を燃した煙でアルミ屋根は真っ黒。この小屋で調理して日記を書いて木彫して編み物して、ひとりたくさん考えごとをした。ねずみの通り道を塞いでいたアサリの貝塚もきれいにした。冷蔵庫として使用していたドラム缶やプラスチック製の食料保管箱も取り除き、余った食料や食器類はキャンプ場隣で作業している二人の若い大工の友人、フアンとセサル、そして岬向うの番屋に住むパブロに受け取ってもらった。また、収穫しきれない菜園の野菜はプランターごとオーナーの妹さんのヴェロニカに託した。

salio siempre mucho humo de fuego desde donde habia cosinado

desayuno y almuerzo

recogiendo llenas del bosque para sobrevivir

donde yo habia cosinado por un ano



出発日の朝も、前日からの雨が相変わらず強く降り続いている。テントの中で雨の音を聞きながら、本当にこれでいくのか? バカみたいに重い荷物を積んで、 人々からまたあの疑心に満ちた目が向けられることを覚悟しながら?… 屋根下に建てた快適なこの”家”で帰国便の直前まで過ごしたほうがよっぽどいいんじゃないのか?  ''去りたくねぇ…''  誰に強制されるでもなく自分でそう決断したことなのに、降り続く雨の中、一年ぶりにテントを畳みながら、そんな気持ちが完全に自分の中で支配的になっていた。

mi carpita

”もうここにいちゃいけんのだ” そう自分に強く言い聞かせて、パッキングを終えた自転車を出口に向かって押し始めた。閉めた菜園からは、ズッキーニとにんじん、そして、発つ直前に掘り起こしたじゃがいもを旅の共として持ち運んでいる。オーナー家族に挨拶してサドルに跨り、後ろを振り返らないようにして前に向かってゆっくりペダルを回した。1年ぶりのフルパッキングの自転車のペダルは、増えた思い出の分だけ重く感じた。昨年3月、事が始まった直後に帰国せざるを得なかったならば、押し潰されそうな無念さから僕は立ち直れなかったかもしれない。ポプラの木々の下で、頭を整理し冷静になって考える時間がもらえた自分はラッキーだった。

zanaorias

zapallos italianos

puerto de quellon

雨の中、町中心部にあるフェリー会社につき、前日に結果が出たPCRテストの陰性証明書を見せて乗船券を購入する。待合室で3時間ほど待つと、いよいよ乗船開始。座席につき窓の外に目を遣る。もう暗がりで、視界が効けば遠くに見えるはずの、キャンプ場に立つポプラの木々の姿は幸いにも見ることができない。見えていたら、きっと感情を抑えきれなくなってしまっていただろう。

白鳥の港、プエルトシスネスには翌朝の8時頃着いた。座席で雑魚寝していたが、船内は異常に寒くて全く眠れなかった。僕だけではなく、他の乗客も震えながら夜を越していた。この港町も雨の中にあったけれど、下船後、アイセン州への入州検査で並んでいるうちに止んでくれた。PCRテストの陰性証明書を提示し、検温されたあと入州が認められた。

llego a puerto cisnes

このパンデミックさなかの旅には、問題なく移動できるように、他にもいくつかの書類を携帯している。先ず、パンデミックが始まった当初、自分が帰国を決断したときのためにと、在チリ日本国大使館が予め発行送信してくれていた通行許可証。ちなみに大使館には、帰国を決断したことは後日伝えたけれど、今回のパタゴニア旅のことは伝えていない。余計な心配をされて止められたりしたら敵わないからだ。そして、キャンプ場のオーナーがわざわざ弁護士事務所に行って作成してくれた宣誓供述書。これは、僕が1年間、”チロエ島及び国境が閉まっていたため日本に戻ることができず、キャンプ場に滞在していた”ということをオーナーが宣誓してくれている法的な書面。正確にいうと、国境が開くのを待って帰国しなかったのは僕の意志によるものだけれども、もちろん、問題なく僕が帰国できるようにという配慮からそのように宣誓してくれている。これを持っていることで、超過滞在中の身である自分が、どれほど強い気持ちになれたことか。加えて、保健省が発行するCodigo-19という名の健康パスポート。これはチリ人もみんな移動の際には取得携帯が義務付けられている。これは公にはオンラインで毎日更新が必要なもの。道中、パタゴニアの自然の中で過ごした僕は、検問で求められる場合にのみ事前に更新するようにした。また、チリ政府は感染状況の程度によって各地域をフェーズ1~4の4段階に区分して規制の強弱を設定しているのだけれど、 フェーズ1の”義務的自宅待機”地域では常に、そして、フェーズ2の”移行期”と規定された地域を週末に通過するためにも、原則的には警察発行の通行許可証を携帯していなければならなかった。

bosque

チリ領パタゴニア北部を南北に走る幹線はアウストラル街道と呼ばれ、風光明媚な大自然の中を貫く道として知られており、欧米人、そして地元チリ人旅行者にとっての憧れの道。独裁者ピノチェトの指揮の下、雨林と山々、氷河と入り組んだ海岸線のフィヨルドで囲まれた広大な辺境地域に点在する地理上孤立したコミュニティ同士を繋ぎ、また同地域と同国他地域との繋がりを強化させるため、1976年に建設が開始され、およそ20年の工期を経てその大半が完成した。現在、街道は北の始点であるプエルトモンから南端のビジャオイギンスまでの1240kmを結んでいる。

al sur

僕はケジョンから船に乗りプエルトシスネスに渡ってから、このアウストラル街道に合流した。走行計画を分かり易く説明すると、街道を北のプエルトモンから南のビジャオイギンスまで、1から10で表したとき、大まかに、こうして4から入って10まで南下した後、8までバスを使って戻り、可能な限り別ルートで4まで北上後、さらに1まで数字を遡って、北端のプエルトモンまで走ろうという計画だ。夏は欧米からの自転車旅行者で賑わうこの道も、パンデミックとオフシーズンで、狙い通り完全に空の状態にあった。

yendo en el bosque

ferns

2,3日はかかるかなと思っていたけど、ペダルを漕ぎ出したら、数時間で重量自転車を漕ぐ勘は戻った。チロエ島で行っていた肉体労働のおかげで昨年以上に体が出来上がっていたようだ。上着の脱着を繰り返しながら丘々を越えていく。ナルカが群生し、道路に沿って川が常にその横を流れている。深刻な水不足のチリ北中部とは対照的に、この地域は本当に水源に恵まれたところで、この街道を走っているかぎりは、どこにでも小川の流れがあるので、水を運ぶことを考えなくていいのがとても楽だった。

nalcas

alamos

cosecha de papas

マニフアレスの町に近付くにつれ、気付けば森は牧草地へと姿を変えていた。黄葉をまとったポプラの高木群を背景にして、長閑な風景が流れていく。広大な草地で草を食む牛羊、じゃがいもを収穫する人々、チェーンソーで松の大木を伐るおじさんの姿…。 1年間の仕事の実体験から、家畜を見るときは牧草が十分あるかどうか、柵の状態はどうであるか、この面積のじゃがいもの収穫にはこれだけの人手がいるのかとか、あの極太の木を倒すのに僅か10分で作業してしまうのかなどなど、自分の得た知識経験と重ね合わせて一つ一つの場面を見ることができていることに気付き、新たな旅の感性を手に入れることができたような気持ちになった。同じものを見ても、思うこと疑問に思うことが増えれば、旅はより面白いものになっていく。

tronco gordo

マニフアレスでは、ポプラ並木の奥にあるキャンプ場に滞在した。並んだ高木たちは、わずか60~70年で今の背丈になっているそうだ。オーナーのマリオさん曰く、カナダから北米人がこの強風地域の生活改善のため支援活動でやってきたときに、防風林としてポプラの植樹が開始されたのだとか。現在人口3000人ほどの町だが、開拓当初は100人足らずで、道などはなく、あるのは森の中を行く小径のみで、約100km離れた町コジャイケまで馬で3~4日かかったらしい。当時は仕事なんてものは限られており、みんなコジャイケにいって、1000頭もの家畜を所有するアメリカ人の下で働いていたそう。マリオさんが若い頃に、この今のキャンプ場の土地を買ったときは広大な草地だったそうだけれども、現在、裏山は松林に変わってしまっている。鳥が種を運んできて、繁殖力で草よりも勝る木が成長し、たちまちに森に変わってしまったようだ。それにしても、ポプラの木々の優美なこと。昔、札幌で勤めていた頃、北海道大学のキャンパス内のポプラ並木を被写体にして、星空を撮る練習を何度かしにいったことがあった。ポプラの木の美しさにはあの頃から惹かれていたのだろうけれど、木や葉の揺れる音を聞きながら、すぐその下でテントで寝ていたこの1年間で、その存在は僕にとってより身近で自然なものになっていた。

alamo

現在、21時から朝5時まで外出禁止令下のチリ。プエルトシスネスを出てから2日間は町に着けていたので、意識的に避難小屋やキャンプ場で夜を越すようにしていたけれど、3日目からは野宿を開始した。自然の中にいようが、公的には同じ法が適応されるので、原則、野宿は許されない。しかし、実際にはパタゴニアの大自然においては、治外法権が適応されるということは、2日もそのなかを走れば容易に察することができるだろう。そもそも、人目を避けて行う、いわゆるワイルドキャンプと呼ばれる種の野宿に、許されるも許されないもないわけで、単純に道から見られる場所を避ければ、辺りに人が住んでおらず、こんなにも夜中車通りが少ない場所では、普通に考えれば誰にも見つかりようはない。問題は、屋根のある場所で夜を越したいときなど、人に許可を得て行うタイプの野宿だ。この場合、たとえ快く承諾頂けても、これが他の人目につくと問題になり得ることがあるかもしれない。いずれにしても、町間にある程度の距離があるところでの自転車移動は、毎日毎日町まで辿り着くことは難しい。特に、今回のように天候不安定な地域・季節の中での走行であるならば尚更だ。決まり事を守ることが大事なのではなく、”誰にも迷惑をかけずに上手に決まりごとを破る”ことがこのパンデミック禍でのパタゴニア走行では大事なわけで、手持ちの旅の辞書を見てみると、実際それはパーフェクトジョブの訳だと書かれてもいる。別にここまでだってきれいに旅してきたわけじゃないけれども、今回のケースに限っては、その決まり事をこの大自然の中でも町中と同じように適応させているというところに無理がある。僕がここでグダグダ言い訳しなくとも、アイセンの警察も住民もそんなことは百も承知してくれていただろうけれど。

en el bosque

un refugio con techo roto

アイセン州は、マガジャネス州、アントファガスタ州に次いで国内で第3の大きな領土を持つ大きな州でありながら、人口では国内で最も少ない州になる。険しい自然に囲まれた地理上の立地と、そのための輸送の困難さも相まって、陸路ではアルゼンチンを経由しなければいけず国境が閉まったままのパンデミック禍では陸の孤島となっている、最南部に位置するマガジャネス州よりも植民地化は遅れ、19世紀後半まで移民による植民地化の動きはなかったようだ。このチリ領北部パタゴニアへの入植が始まったのはここ100年ちょっとほど。町々の歴史は浅く、少数の短期で赴任で来ている人々を除いて、住民の大半は何らかの理由で都市部にいる利便性を捨て、移民としてやってきたような人々やその子孫なので、僕がしているようなことが大好きな人々ばかり。”今年はお前みたいなやつが、全くやって来なくて淋しかったぜい” とばかりに温かく迎えてくれ、良い距離感で放っておいてくれる。これは大変ありがたいことだった。

un encuentro precioso con gente en la ruta

rio baker

4月13日、ルート上最大の町コジャイケ着。道中と違い、みんなしっかりとマスクしていてさすがに緊張感がある。観光案内所はもちろん閉鎖。去年の3月からこの手の施設はどこもやっていないので、詳細な周辺地図やパンフレットは手に入らないし、聞くべき人に周辺情報を訊ねる機会もない。たとえ実際に訪れることはなくとも、人から種々の土地の情報を得ることで旅というのは肉付けされていくものだと思うけれども、それがなかなかうまくはいかないのがパンデミック禍の旅。両替商もやっていないので、昨年アルゼンチンにいたときに闇両替で作っておいた200米ドル相当のアルゼンチンペソを替えることもできやしない。経済危機下にあるアルゼンチン。通貨はすでに当時のレートの半分の価値まで下落してしまっているけれど、日本に持って帰っても両替できないので、このまま持っていてはただの紙切れ同然だ。

coyhaique huemul

マスク着用の地元人同伴でのみ入店可能

チロエ島のキャンプ場で会った旅人が友人を紹介してくれていて、その彼、ロベルトが友人たちと住むシェアハウスに泊まらせてもらえた。自然に囲まれた都市に住みたいという需要からか、コジャイケの家賃はなんと首都サンチアゴのそれよりも高いそうだ。釣りガイドを職業とするロベルト。アメリカ人が主な彼のクライアントで、パンデミックで昨年から仕事はなく、養殖サーモンの加工工場やファーストフード店などで働いて生き延びている。7歳になる息子ラファエルは、学校の同級生が感染して以来、学級閉鎖になり、もう数週間家にいるそう。仕事の合間、ロベルトみずからが家庭教師として先生の役目を務めていた。

con amigos de coyhaique

国内の他の町と同様に、このアイセン州の州都コジャイケにも、コロンビア人やベネズエラ人などに加えて、当然のようにハイチ人がたくさん暮らしている。養殖産業の中心であるチロエ島のケジョンの町中もハイチ人で満ちており、ここはどこの国だったかと思ってしまうほどたくさんの黒人の姿が見られた。通りでは、祖国への送金でやってくる彼らで毎日長い列ができ、中心部で建設作業の手伝いをしていたときも、陽気なカリブの音楽がずっと近所の家から聞こえてきていた。チリ国内には北は銅などの鉱山業、中部は果樹園などの農業、南にサーモンやムール貝の養殖業と、人手を必要としている産業がどこにでもある。数年前から爆発的に増えているというハイチからの移民の労働力なくしては、今日の、そして、未来のチリの発展はないのかもしれない。

un paisaje me gusto

セロ・カスティージョへの峠越えでは、紅葉が最盛期を迎えていた。白いひげを生やしたニレの木の紅葉が美しい。常緑樹のコイグエの葉の色がニレやレンガのように鮮やかに変わらないが故に、森に色のコントラストをもたらしており、なんとも奥ゆかしい空間を創り出している。同じく氷河に囲まれた、アラスカの金色に輝くポプラの黄葉の秋も好きだったけれど、赤や白の色が混じった色彩豊かなこのパタゴニアの秋は、日本のそれと似ており、僕の郷愁を誘うものだった。

nires

ruta colorida

bosque canbiando su color

パタゴニアの物価は高い。例えばツナ缶が1800ペソ(約270円)などで売られている。これはケジョンでの価格の3.5倍に相当する値だ。さすがに買う気にはなれなかった。このパタゴニアの旅では、食材費を抑えるため、安価で保存が効き、持ち運びも簡単な乾燥コチャユヨ(海藻)と乾燥大豆肉を常に携帯し、水でよく戻してから他の具材とともに調理し頻繁に食していた。他に今回携帯していたものとして、菜園で花観察用に育てていたコリアンダーの苗を吊るし干しにして乾燥させてから取り出した種も、スパイスの一つとして大変重宝した。

cochayuyo

semillas de cilantro

走行中、もし他の場所で1年を過ごしていたら、どうであったろうかとよく考えたりした。50km~100kmくらいの間隔で村がルート上には点在しており、今は世情から閉まっているところが大半だけれども、それぞれに大体キャンプ場はあり、その間にもぽつんとあったりする。中には、”ここで運よく滞在できていたとしても、素晴らしい時間が過ごせたのではなかろうか” と思わせるようなところもあった。でもそれらのどこであっても、間違いなく、薪ないしガソリンといった燃料や、食糧の調達の問題、インターネット環境の不備等々の問題が生じていただろうと思う。仮に近くに商店があって食糧の調達が容易にできる環境であったとしても、上述の例のようにパタゴニアはどこも物価が高い。それに比べ、チロエ島の物価の安いこと。なかでも、ケジョンというところは人口3~4万人ほどの町だけれども、中サイズのスーパーがたくさんあって価格競合してるからか、たぶん他のチロエの島の町よりもものが安く購入できる。キャンプ場の目の前には海、裏山には散策路のある森もあった。敷地内には愛らしい羊たちと馬、鶏とアヒルたちがいれば、薪も無料で森から自由に伐って、または拾って運んでこれた。インターネットを利用して、感染状況を確認したり、地球の裏側の家族とも連絡がとりたいときに無料で連絡することができた。やる仕事もたくさんあったし、お荷物ではなく、役に立てているという自覚を持って過ごせていた。仕事後はお湯シャワーで汗を流すことだってできた。ネット環境およびお湯が出るのは決して当たり前なことではない。それらの恩恵のないキャンプ場は山ほどある。菜園についてもそうだし、大方やりたいことを好きにやらせてもらえていた。薪用の木を伐るために仕事外で勝手にチェーンソーを持ち出し、燃料を消費しても何も言われたことはない。自由に木を伐きること、これだってまったくもって当たり前なことなどではない。自分の土地に十分な面積の林があっても、薪を購入しているところはたくさんある。1立方メートルの量のコイグエの薪は、例えばマニフアレスでは、35000ペソ(5000円以上)する。冬場は1週間で使い切ってしまう量だ。これだと1ヵ月で約2万円もの出費になる。本当に最高のところで拾ってもらえたもんだなと改めてその奇跡に感謝した。

shakira

el exipo

con moto cierra

una de rutinas mias

自転車旅行者の誰もいないアウストラル街道をいく。商店に入るときや町中ではマスクを着用し、町を出れば、マスクを耳にひっかけて顎元まで下げた状態で走った。未舗装道路に入っても、日中は予想外に交通量があり、砂埃、土埃が巻き上がるので、マスクが顎元にスタンバイされているのはなかなかに便利だった。そう思っているうちに、たちまち雨になり、路面を潤してしまうのが、氷河を頂く山に、日に幾つもの虹の橋を架けてしまうこの街道の魅力でもあった。街道では大方どこも北西から北よりの風が吹いている。風の大地パタゴニアといっても、アルゼンチン側のパンパ(草原)と違ってこのエリアでは森が風を防いでくれるので、風が気になることは少なかったけれど、橋を渡るときや、他にも谷状の地形をした場所を走るときは吹きさらしに遭うことも度々あり、突風でハンドルを持っていかれてしまうので注意しなければならなかった。

una vista maravillosa

gauchos

チリ・アルゼンチン間に跨るヘネラル・カレーラ湖。このチリ最大となる湖の湖岸ではまずまず天候に恵まれた。風が強いが、水が綺麗、景色良し、言うことなし。白峰と氷河に囲まれた贅沢な土地。馬に乗ったガウチョ(カウボーイ)たちの姿も見られる。ベルトランド湖の入り江のエメラルドグリーンの水の透明さには思わずペダルを止めてしまうだろうし、氷河を水源とするチリ最大水量を誇る河川、バケル川の青緑色の流れにだって思わず見とれてしまうだろう。ただ、氷河に関して言えば、ここも遠くに氷河がたくさん見られるけれど、近くまでいくには船に乗ったりセスナに乗ったりが必要なようで、アルゼンチン領のペリト・モレノ氷河までいくことができない今、歩いて間近に見られるものがたくさんあるアラスカに比べると、貧乏旅行者には接近して見れる機会がないので、迫力に欠けて思えてしまった。

mira este azul !!

4月22日、日没前。本降りになる前にコクランに着いた。コクランは地理学上の理由からか、さらに南に位置するビジャオイギンスなどよりも増して冷える。まだ営業していて受け入れてもらえたキャンプ場の屋根下にテントを張る。ここでこのパタゴニアの旅で初めて自転車旅行者に出会った。チリのコンセプシオンからやってきたフェルナンドとステファニーのペア。旅を初めてから3ヵ月目で、うち3週間だかをここで絵描きなどしながらキャンプして過ごしているという。フェルナンドは世界一周を計画しており、国境が閉まっているので当面の間はチリ国内だけ周る予定。5月中旬に、120㎞南のトルテルからマガジャネス州のプエルト・ナタレスまで船で渡り、冬場そこで働きながら越冬する予定だそうだ。このルートを往来する船は約3週間に1便という頻度で運行されている。

por supuesto, abajo de techo

fernando y stephanie

sobre el rio baker

バケル川の河口に位置するそのトルテルの町に着いたときも、やはり雨の中だった。安全にキャンプできるところは、拠点となる広場から長く急な木製階段を下ったところのみ。雨の中、自分の重量自転車をばらして何度も往復しながら下るのは、とても現実的な行為ではなく、町中に張り巡らされた木製の渡り板で知られるなんとも興味深いこの町は、歩いて見て回りたい場所だったので、その時間を確保するためにも、広場近くの宿にすぐ投宿することにした。ベッドで寝るのは、カストロのホステルのドミトリーを一人独占して使った日以来のことで1年2ヵ月ぶり。そのふかふかと柔らかい感触は、軽い感動ではあったけれども、まったく落ち着けたものではなかった。

llegada a tortel

primera cama en el ultimo un ano y algunos meses

トルテルの住民は向かいの小島などに行き、生活に必要な木々を伐って運んできて生活している。ヒノキの木が豊富に生える土地故に、トルテルの町中に張りめぐされている渡り板や遊具、階段、その手すりに至るまで、全てが”100年持つ”と言われるその丈夫なヒノキの木で作られている。住居にもやはり同様の木、そしてマニオ、コイグエなど土地原産の木材が使用されているそうだ。つい最近(2003年)まで道路アクセスはなく、外界とは水路と空路でのみ繋がっていたというのだから、この20年で人々の暮らしは激変したことだろう。ちょうどマガジャネス州のプエルト・ナタレスからの船が前日に着いたようで、袋いっぱいに詰まった衣類を担いで遥か上階にある広場のトラックまで運ぶおじさんの姿があった。トラックでコクランへ輸送し、販売するのだという。プエルトナタレスの250km南東に位置する州都プンタ・アレナスには免税地区が設けられているため、関税なしで外から商品を輸入できる。このアルゼンチンを経由させずに行う、トルテルやプエルトユンガイを経由した南からのアイセン内陸への物流も、アウストラル街道の完成を待って実現されたものだ。

tortel

la casa y el jardin de erica

海岸沿いに建つパラフィート(高床式の水上家屋)の姿は同じように木造建築文化を持つチロエ島の風景を思い出させた。ちなみにチロエ島と違ってトルテルでは貝類は採れないらしい。一軒一軒建物の作りを注意深く拝見しながら、渡り板を歩いていると、自宅の庭でそら豆とグリーンピースを収穫しているおばちゃんがいて、作業を見ていると、ほいっとその収穫物を手渡され、味見させてくれた。”甘っ!” 鶏糞などを加えずに作る、100%植物性の手作り有機肥料が、この甘く質の高い豆を育てるのだそうだ。

habas

tortel

”トルテルの町は、チロエ島の雰囲気とよく似ていて、とても興味深いです。” エリカというその女性に、そう伝えると、「それはきっとドイツからの入植者たちによるものでしょう」と彼女。先にやってきたスペイン人が木造教会や家屋を建設していたけれど、その後にやってきた、より高い木造建設技術を持つドイツからの入植者たちが、やはり島原産の固有の木材を使って家々を建設。続いてやってきた新たな入植者たち、あるいは彼らに建築を学んだ土地の人々は、より良い土地を求めて、秘境へ秘境へと徐々に奥まで入っていき開拓を進めていった。こうして、彼らの移動によって、ドイツ風木造建築は、このトルテルの町にもいよいよ達した、彼女の言ったことを簡単にまとめるとそういうことであるらしい。実際どうであるのかはよくわからないけれど、すごく興味深い話だった。トルテルの設立は1955年だそうだ。なぜ、ドイツ人はこんな辺境までやってきて開拓を行う必要があったのだろう。「そうしないと殺されていたからよ」エリカは毅然とした表情で僕の疑問にそう答えた。僕はハッとして、思わず熱いものが内から込み上げてくるのを感じた。

arboles de coigues

glacier

僕の表情の変化を感じ取ると、エリカは彼女がユダヤ人であることを教えてくれた。第一次世界大戦後、ナチスの迫害を恐れたユダヤ人はドイツや他ヨーロッパ各国から、アメリカなどを経由して、飛行機や船で、ブラジルそしてアルゼンチンといった南米諸国にも逃れてきた。エリカのおじいちゃんも同じようにして迫害から逃れるため、何のあてもない遠い見知らぬ土地へとやってきた。彼女の何人かの家族は今、イスラエルに住んでいるという。「わたしたちは訳もなく迫害され、虐殺されてきたけれど、わたしたちだって戦争で今もたくさんの罪もないパレスチナ人を殺しているんだから…人間って何も学ばないのかしらね…」 使い古された頭の中の世界地図上に、異なる複数の点を結ぶ、新たな繋がりの糸が張られたヒノキの木柱が立てられたような気がした。エリカの話を聞けただけでも、このパンデミックのさなかに、パタゴニアの旅を実行した甲斐があるように思えた。

un refugio en donde pasaba dos noches

tejer en una meditacion

プエルト・ユンガイから40分ほど船で渡り、対岸のリオ・ブラボにある避難所で豪雨のため2泊を過ごした。ベンチに座りながら、それまでほとんど時間をとれていなかった羊毛靴下の編み物を進める。毛糸はケジョンのキャンプ場のオーナーのママが持たせてくれたもので、キャンプ場で世話していた羊たちの体毛から紡がれたものだ。船を利用する乗客の待合室になっているこの避難所以外に、周りに何もないその地は、船の運行しない夜は完全な静寂と闇に包まれる。湖だと思い込んでいたけれど、朝、遠くにアザラシを見つけたことで、ここは海なのだろうかと考え始めた。注意深く手持ちの紙地図を見て、太平洋と繋がる海であると確認。「だからプエルト・ナタレス行きのフェリーが対岸のプエルト・ユンガイからトルテルを経由して運行されているのか」そう気付いて、ひとりすっきりした気分になった。チリ側パタゴニアは複雑に海岸線が入り組んだ広範囲に渡るフィヨルドになっていて、湖なのか、海と繋がっている入江なのか、地図を見てるだけではすごく分かりづらいのだけれど、この辺のイメージを明確にすることができた。それと同時に、フェルナンドとステファニーが半月後にトルテルから乗船する予定の、その入り組んだフィヨルドの水路を縫うように進んでいくプエルト・ナタレスへの航海は、さぞ印象的な旅なのだろうと想像を膨らませた。

dos nochs en un refugio de gaucho

cochayuyo zapayo salchicha cebolla

un arco iris encima del glacier

翌日も翌々日も豪雨で、50km先にある、ガウチョが旅人に開放している避難小屋で、もう2泊雨宿りを強いられ、手持ちの食糧が底をついた。4月30日、数日降り続いていた雨が11時頃ようやく上がり、北の空に見える雨雲から逃げるように、よく馴らされた未舗装道路を走る。虹が氷河の上に重なって3度も4度も架かった。アルゼンチンとの国境が閉ざされたままの状況下で、陸路で僕が行ける最南端の町ビジャ・オイギンスに着いたのは16時前だった。南緯48.3度に位置するこの町の人口は500人ほど。町についても活気がなく、人通りもなく、集会が禁止されているので市場とか工芸品とかほとんどの店が開いていない。アウストラル街道の終点はさらに7kmほど南にある。遠くに氷河を眺めながら、そのまま一気にオイギンス湖に面したアウストラル街道の終点へ。船が何隻か停泊しているはいるが、人影は見当たらない。目の前にある湖を船で渡って、悪路を抜けた先はもうアルゼンチンで、今まで写真で何度も見る機会のあった、実に雄々しい容姿を持つパタゴニアの名峰・フィッツロイ山が聳え立っているわけだ。大陸最南端へではなく、現状行ける最南端へ、と割り切ってアウストラル街道の終点を目指して走ってきたわけだけれど、いざ到着してしまえば、どうしてこんなところで反転して、北に向わなければならないのだろう、というやりきれない気持ちに襲われた。”もっと南へ…” という押し込んでいたはずの想いを再び押し殺すように、何の終点にも思えないその地を離れた。

el fin de la carretera austral



@Japan

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hiromu jimbo

Author:hiromu jimbo
I'm in a challenge to cycle around the world
since May 2009,started from Istanbul,Turkey.
Motivation for this journey just comes from big curiosity about the world.I'd like to see and feel the ordinary life of the people living in defferent cultures.

2009年5月末イスタンブールより
自転車世界一周挑戦中です。
世界で起きていることへの大きな好奇心がペダルを回しています。その土地で生きる人の日常生活を見ていけたらと思います。

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*special thanks to sekiji-san

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68,781km (May09-May14)
77,679km (July14-June21)

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