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2021年7月中旬 

6月10日22時半に、チリのサンチアゴを発ってから、ずっと太平洋上空を飛んでいたため、自分が座っていた進行方向左側の窓から初めて見えた陸地はパナマの夜景でした。登頂したバルー火山で拝んだご来光、カリブ海で釣り上げた魚のこと、心を折られたコスタリカの激坂に、太平洋カリブ海両側の背の高いヤシの木が揺れる美しいビーチの風景などなど、現地で過ごした時間が思い起こされました。乗客はまばらで、1列に9人が座れる座席には1人乗客がいるかいないかといった具合。スカスカの状態で飛んでいるので、乗客たちが席を離れて3つ並んだシートの肘掛けを上げてベッドにして横になって眠っている機内の様子は、航空会社にとってどれほど今が大変な時期であるかを容易に見てとることができるものでした。

11日午前8時過ぎ、経由地である米国アトランタ上空。雲間から景色が再び見えるようなると飛行機はゆっくり高度を下げていきます。夏のアトランタは、冬の南半球からやってきた分、余計に暑くて、羽田便の出る搭乗ゲートまで歩いていくのに、サンチアゴの空港で預け荷物の規定重量超過防止対策で、預け荷物にせず、着込んでチェックインした羊毛セーターやらフリースなどの衣類を7枚羽織っていたため、汗だくになってしまいました。

およそ3時間後の午前11時半、アトランタから東京まで約12000kmの空の旅が始まりました。機内は相変わらずガラガラ。顔立ちから察するに、おそらく乗客の大半は米国在住の日本人。このパンデミック禍、米国外から乗り継ぎで来て日本へ行く人は少ないだろうし、チリはおろか、南半球から日本へという人も僕だけだったのではないかと思います。客室乗務員に英語で何か訊ねられても、イエスではなくスィが、サンキュではなくグラシアスが最後まで無意識に出てきてしまいました。米東部を離れると、聖山ブラックヒルズやラコタ族が居住するパインリッジ保留区などを訪ねて駆け抜けた中央大平原が広がります。冬期に越えることとなった思い出深いロッキー山脈は、残念ながら雲がかっていて何も見えませんでした。目が覚めて窓のカバーを開け外を見渡せば、もう太平洋上空を飛んでおり、機内からはブリティッシュコロンビア、ユーコン、アラスカにかけて環状に180度雪を頂いた山々が連なって見える絶景が。どこもかしこも自分が自転車で走ってきた土地土地。白に輝くベルーガクジラや、壮大な氷河を目の当たりにしたアラスカのキーナイ半島、コディアック、そして、アリューシャン半島の付け根まで、やがて雲に視界を塞がれてしまう前に、窓に額を押し付けながらなんとか見届けることができました。パンデミックでの中断含め、5年かけて自転車で走ってきたアメリカ大陸の道程を、帰国前に、空から遡って味わうことができるだなんて、なんと気の利いた粋な贈り物であろうかと思っておりました。飛ばせば赤字というような状況の中で、分断された世界と世界が、そして人と人とが繋がれる機会を提供し続けてくれている航空会社とその職員の方々のおかげで、地球の裏側にいる家族友人たちと再び会うことができることに、終始感謝の気持ちでいっぱいでした。

4月中旬。チロエ島のキャンプ場を出て、パタゴニア走行を始めて数日後、アイセン州の州都コジャイケに着いたとき、前の月に予約しておいた6月14日発予定のフライトが、何の説明もなくキャンセルされたとのメールを受け取ったときはとても慌てました。4月初旬に急遽、感染防止策として、チリ政府が特別な理由なしでのチリ人の出国を禁止したことを知っていたので、航空会社及び代理店から説明が一切なくとも、事情は察することができました。パンデミックが始まって以来、ただでさえ航空便の欠航が相次いでいるなか、ネットを検索して出てくる便は、さらに激減。非常によろしくないインターネット環境の中、夜通しかけてなんとか予定を狂わされることなく、幸運にも近い日にちで予約できたのが6月10日発のデルタ航空の便。ほっとしましたが、この便に関してもまたキャンセルされてしまわないだろうかと、パタゴニア走行中、不安は絶えることがありませんでした。

6月12日14時頃、デルタ航空295便は定刻より30分ほど早く、羽田空港に無事着陸しました。機内から出ると、じめっとした暑さに捕まえられ、すぐに汗ばんできました。7年ぶりの日本。自動販売機が並ぶ通路。知らない俳優・スポーツ選手ばかりの種々の広告。ウォシュレットな公衆トイレ。蒸し暑くて衣類を着込んで歩くことなどとてもできないため、両手で抱えきれないほどの衣類を何度もフロアに落としながら、空港内を歩いて移動します。

検疫所からの質問票、誓約書の他、チリ出国及び米国出国時に提示したものと同じ、すでに72時間の有効期限の過ぎているPCR検査陰性証明書を提示したあと、唾液採取によるPCR検査の受検といった流れで空港内をぐるぐる歩かされます。事前にインストールしておくことが求められていた、隔離期間中に必要なビデオ通話のためのアプリや位置情報確認用に必要なアプリがスマートフォンにインストールされているかのチェックやボランティアスタッフによるそれらアプリの設定説明などのプロセスを経て、待合所でさらに1時間も待っていると、PCR検査の陰性結果を受け取ることができました。

自転車の入ったダンボール箱含めた預け荷物一式を受取り到着ゲートへ。通常、迎えに来た人々でごった返している到着ゲート前は閑散としており、寂寥感漂う到着フロアが広がります。事前に自分で予約していた隔離用のホテルへは、公共の交通機関(国内線飛行機、電車、バス、タクシーなど)を使用することは許されないため、警備中の警察官に断ってからトイレ横で大きな荷を広げ、自転車組み立て及び荷物パッキング作業。その後ろには”東京オリンピック2020”と書かれた、この時点で開催されるのかさえ未だに懐疑的な、翌月へと迫ったスポーツの祭典の展示がされていました。たまに通るマスク姿の通行人の中には話しかけてくる人は誰もいません。海外ならば、質問攻めに遭ってもおかしくない状況です。いろいろなことが次々と起こる”日常であった非日常”から帰ってきたことを実感し、帰国早々に軽い旅シックのようなものを感じました。

旅の疲れと空腹のなか作業を続け、すっかり暗くなってしまった時間に、チリ国旗を付けたままのフルパッキングの自転車に跨り、ようやく空港出発。イギリス走行ぶりの左側通行。海からの風が心地よく、意外に快適な東京の道。サイクルレーンや自転車利用者のことを考えた標識標示が、この数年でずいぶん整備されたものだなと感心しました。予約した隔離用ホテルにチェックイン。往復して荷物を部屋に運び、浴槽に湯を溜めて肩まで浸かります。ペルーで浸かった温泉ぶりの湯舟は気持ち良すぎて浴槽内で眠ってしまいました。

滞在中は、インストールしたアプリを通じて厚生労働省の入国者健康管理センターから現在地を報告するようにとの通知が1日に複数回来るので、その都度報告。他には、メールによる健康状態のチェックと、同管理センタースタッフからのビデオ通話による居所確認が2週間毎日ありました。

隔離期間を終え、やはり気持ち良い風が吹く、広々とした多摩川沿いを上流に向かって快走。60kmほど走り日没前に相模原の実家に到着。ドアホンを鳴らすと、初めて顔を合わせる5歳の甥が一番に走って出てきて、「ひろくん、ひさしぶり!」と声をかけてくれ迎えてくれました。歳をとった父母は階段の上り下りが辛そうですが今も健在でいてくれ、兄夫婦も、すっかり成長した二人の姪っ子も元気そうです。旅を始めたとき、まだ生まれていなかった上の姪は11歳になり、もう立派なお姉さんといった風です。

数日後、机の引き出しを整理していると、世界旅行の計画書や旅を始めるにあたって、当時暮らしていたアパートの部屋や北海道大学の図書館などで調べものをしていたときの記録が出てきました。あの頃の、未知の世界に対する希望に溢れ、不安でいっぱいで、興奮みなぎる気持ち…。思いがけず触れることとなった20代の自分が抱いていた旅に対する強い思い。その夢実現の旅の終盤に差し掛かったところで帰国を余儀なくされた今、それを見る40歳となった自分。やはりこのままでは終わることはできない、その思いを再確認することができました。保留となった夢実現の旅。生まれる新たな夢々。さあ、これからどのように生きていこうか。いろいろな選択肢を考えながら、元気な甥と相撲をして過ごす、7年ぶりの日本の梅雨です。



※7月中旬JACC投稿近況報告文より

@Japan

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carretera austral con el sol



2021年4月8日~6月10日

17時40分前後に日没を迎え、もうずいぶんと暗くなった18時頃、オイギンスの町に戻ってきた。複数あるキャンプ場はどれもパンデミックとシーズン外で閉まっている。早朝去るようにすれば、屋根のあるところで勝手にどこでも寝れそうだけれど、外出禁止令下、町中では勝手にというわけにもいかない。閉まっている空港オフィスの建物の前の屋根付きスペースにテントを張れないものだろうかと警察に相談しにいってみると、市が開かれる広場にあるフォゴン(囲炉裏のある小屋) を厚意で使わせてもらえることになった。パンデミックで集会が禁止されているため、5ヵ月間使用されていないようで埃だらけだったけれど、屋根に水、電気付きで雨も風も防げるなんともありがたい物件だった。2泊させてもらい、相変わらず雨が続く中、コクランへのバスの出発を濡れることなく屋根下で待つことができた。バスの乗客は他に誰もおらず、自転車を分解する必要さえもなくトランクにそのまま載せてもらえた。

dos noches en un fogon

glaciar detras del fogon

5月3日朝、氷点下5度。10日ぶりに戻ったコクランは凍てついていた。誰もいないキャンプ場の共有スペースにマットを敷いて寝袋に包まっていた。恵みの快晴で、太陽光で霜が溶け始めたころ、自転車に乗ってタマンゴ国立保護区へ歩きに出かける。なんでも、フエムルというチリとアルゼンチン固有のアンデスシカに出会えるチャンスが最も高い場所らしく、出会いを楽しみにしていた。町から数キロ離れた保護区への入口へと着くと、休区日とのことだったけれど、オフィスで番をしていた心の広いおばちゃんがタダで通してくれた。コクラン湖の水も澄み切っていてとてもきれい。釣りで有名な湖らしく、コジャイケのロベルトも例年ならお客さんを連れてよく来るそうだ。森を抜けながら、湖に沿って6時間近く歩くも、フエムルは姿を現してはくれなかった。

escarcha

cochrane

verde

lago cochrane

明くる日、先日走った同じ道を走ってプエルト・ベルトランドへ。方向と天気が違えばとこうも印象が違うのかと天候の重要性を再確認しながら、往きと違って雲が除けた街道を新鮮な気持ちで走れた。その翌日にはアウストラル街道を外れ、ヘネラル・カレーラ湖南湖岸を走るチレチコへの道を進む。プエルト・グアダルの町に着き、昼食用のパンなど調達に商店に行くと、前でテレビ番組の撮影が行われており、トゥクトゥク (三輪タクシー) に乗った夫婦とその子どもがインタビューをされているところだった。大量の荷物を積んだ僕の姿を見て取材陣が話しかけてきた。彼らのあと僕にも続けてインタビューしたいという。このエドワルドさん一家はメキシコのケレタロからトゥクトゥクで1年だか2年だかかけてやってきたらしい。なんでも3人は昨年3月、ここグアダルの町でパンデミックに巻き込まれ、商店の方の厚意で空き部屋の提供を受け、もう1年以上もそこで滞在しているそうだ。彼らも国境が開き、前に動き出せる日を待ち続けてきたわけだけれども、今ではどのようにして国に帰ろうかと考え始めているようだ。僕や彼らと同じような状況の人たちはこの世界にたくさんいるのだろう。

mosqueta

carretera austral en un dia nublado

4月初旬、このパタゴニアの旅に発つ直前に、ケジョンのキャンプ場で会ったのは、チリ中部太平洋沿岸のビーニャ・デル・マルから車でやってきたセバスチャンとアレハンドラのカップル。2人は同月半ばにワーキングホリデービザでニュージーランドへいくつもりだった。2週間前に家と仕事、家族と友人にサヨナラして故郷を出た直後、チリ政府がコロナウイルス感染症予防対策からチリ人の出国を禁止したため、渡航できなくなり、大旗を振って出てきた手前、地元にも帰るに帰れず、何かに背中を押されるようにして南へと向かい、パタゴニアへ住む場所を探しにやって来た。今ふたりはプエルトシスネスにアパートを借りて住んでいる。また、コクランで出会ったフェルナンドとステファニーは、計画していた船旅の渡航予定先であるプエルト・ナタレスが、5月初旬から警戒レベルをフェーズ1に引き上げられてしまったために、突如、マガジャネス州住民以外は乗船を許されなくなってしまい、直前でマガジャネス行きを断念せざるを得なくなってしまった。現在はビジャオイギンスで働きながら越冬し、春を待つ計画だ。彼らとの出会いは、パンデミックがどれほど多くの人々の人生をいたずらに狂わせているかということを改めて認識させてくれた。

crema para mano se llegaro de la familia de tuktuk

彼らのあとに3分程度の簡単なインタビューを受け、役目を終えて町を発つ。去り際、自分の切れて荒れた手指を見てたった今薬局で購入してきたというレタスとレモンエキス配合の肌クリームをトゥクトゥク一家の息子のラロくんとお母さんが手渡してくれた。

manana helada

carpintero

キツツキが木の幹を突くのを拝みながら森を越えると、きつい湖岸沿いのアップダウンが果てしなく続いた。透き通った湖に対岸の山々が映える壮大な景色が続くのだけれど、単純に辛く、景色を楽しむ余裕があまりなかった。アウストラル街道も丘越えの連続ではあるものの、きついと思うような場所はあまりなかったように思う。しかし、アルゼンチンとの国境に位置するチレチコの町へと続くこの道は、街道とは幾分種の異なる道であるような気がした。汗だくになりながらこの湖岸を抜けると、森林限界を越え、高木の生えない乾燥したパンパの風景に変わった。この植生の劇的な変化を身を持って体験できることこそが、この湖岸道をゆく何よりのご褒美に違いなかった。サボテンなどの棘のある植物の生える低木の中を馬や牛が歩いている。夜は寒くて洗う気にはなれないので、綺麗な小川の水で頭を水で洗ってリフレッシュ。濡れたテント類も河原で乾かすことができた。

lago general carrera

pampa

ibanes

5月8日、チレチコから船でヘネラル・カレーラ湖を渡って、ポプラと松の防風林に覆われた対岸のプエルト・イバニェスへ。この町からは、約700㎞ぶりに舗装された道に変わった。翌日は快晴となり、絶好の峠越え日和。セロ・カスティージョの町には、例年なら4月末には初雪が降るらしいのだけれど、この年は山に降っても町にはまだ降っていないようだった。標高1200mほどの峠の前後には、1kmほどに渡って道路上に薄い雪氷の膜が張っており、強風の中、すべての衣類を着こんでゆっくりゆっくり下っていった。3週間前は紅葉の盛りで目を奪われるほどの鮮やかさであったのに、落葉樹の葉はもうほぼすべて枯れ落ちていて、写真に収めておきたいと思える景色も見つからず、おかげでスイスイと進んだ。

camping por gratis con suerte

cerro castillo el 9 mayo

5月13日、オルテガの町を発ち丘々を越えていくと、一か月ぶりに大好きなマニフアレスに戻ってきた。ポプラの葉がどこも散っていて、近付く冬の到来を伝えていた。ここは冬でも雨ばかりで雪はほとんど降らないらしい。キャンプ場のオーナーであるマリオとマルガリータに挨拶すると覚えていてくれて、マテ茶を頂きながら道中のことを話す。庭のりんごの木々には、僕が自信を持って、”パタゴニアで一番美味しい” と言い切れる果実たちがまだまだ残っていて、「ふたりでは食べきれないから、自由に取って食べなさい」と先月と同じようにそういってくれるふたり。先をV字にした木枝を使って、好きなときに必要な分だけ採って食べた。ここに戻ってきたら、数日のんびり滞在して休みたいとずっと思っていたので、それまでなかなかできなかったことを片付けた。0度に近い気温のなか裸になり、トイレで髪を切る。震えながら片付け含め1時間ほどでササッと仕上げた。凍てつく水に手を当てて1ヵ月ぶりの洗濯。下着と靴下とタオルくらいはそれまでに何度か洗えていたけれど、常時着用してきた衣類に付いた1ヵ月ぶんの汗、埃、汚れをついに洗い落とせた。洗っても乾かせないと着るものがないので、雨で身動きとれないとき以外ほぼ毎日動き続けていた分、洗うチャンスがなかった。貴重な薪を頂き、ストーブに火を灯し、ロープを張って洗った服を吊るして熱で乾かす。

mate

secar ropas llavadas

アイセン州では、高いお金を払って住民は薪を購入したり、自分で木を伐って燃料を賄っている。大気汚染を防ぐために、みんなできるだけ乾燥した薪を燃すようにして、煙を出さないように気を遣っている。一方でマガジャネス州では、ガスがアルゼンチン側のパタゴニアで採れ安く輸入できるため、キッチンもストーブもガス仕様である家庭が大多数で、ほぼすべての地域で州政府によるガス供給サービスが整備されており、ガス代に関しても7割だか9割だかを州政府が負担してくれるのだそうだ。同じパタゴニアと呼ばれる地域でも生活様式は地域によってずいぶん異なる。

con greg y mica

5月21日。北上する者にとっては、アイセン州最後の町となるラ・フンタの町。検問がありロス・ラゴス州へと入るのに、PCRテスト陰性証明の提示が必要で足止めを食う。3連休の週末の初日に着いてしまい、診療所が開くまで待ち、結果が出るまでさらに待つ。やはり閉まっているキャンプ場を開けてもらえ、ヒノキの木の下に家を構え、無料で6泊も滞在させてもらえた。こうやって、僕のためにわざわざ門を開けてくれ、尚且つ無料で場所を提供して頂けたキャンプ場は道中いくつかあった。当然、ガス缶はもう撤去されているので湯や火など場内のサービスは何も使えないのだけれど、僕が必要としていたのはただ一つ、雨を防げる屋根だけであったので、特に滞在中ずっと雨に降られたラ・フンタでは、木の下に居れて本当に有難かった。

abajo de techo natural de un arbol de cipres

helecho

その後もプエルトモンまでの数日間、ずっと強い雨に降られた。対岸に位置するケジョンからいつも眺めていたメリモユ、ミチマフイダ、チャイテン、そしてコルコバドといった火山たちは重い雲で覆われ、どれひとつとして姿を見せてはくれない。近くで拝めることを楽しみにしていたが、その願いは叶う気配すらない。止むことのない雨に、眺望への希望などもう完全に放棄していたチャイテンの町を発つ日の早朝、ふと気付くと、朝陽にほのかに照らされた、コルコバド山の鋭く尖った頭部が雲間から覗いていた。潮干狩りをしながら、満月光に映える雄姿を幾度となく拝んできたその美しい独立峰は、火山群の中でも特別な存在であった。僕は報われたような気持ちで、予期せぬ短い早朝ショーに見入った。

vista del volcan corcovado de quellon

vista de cabeza del volcan corcovado en chaiten

もう帰国便まで時間がないので、ゴミ袋で作ったカッパを被りながら、強い雨の中を漕ぎ続ける。感染が拡大しているプエルトモン以北では、大自然というエリアからはもう抜けるので、旅の自由度は著しく低下する。当然、規制の中で夜を越すことはより難しくなる。出国前にもう一度会いたい人々が道中に何人かいたので、自転車で走って会いに行きたかったのだけれど、楽しく旅できるイメージが持てなかったため、プエルトモンからサンチアゴまではすでにバス移動する計画のもと、パタゴニアに集中して走ってきた。自分にとってのアウストラル街道走行の終点であり、今回の自転車旅の終点ともなるプエルトモンまで、あと残すところ200kmあまり。パタゴニアの旅を、なんとか計画通りに無事完走で終えることのできそうな安堵感・満足感の一方で、数日後200km先にいる自分が、すでにこの重い自転車のペダルを漕ぐのを止めているというその事実が信じられない気持ちだった。

pude evitar viento y lluvia. muy agradecido por esta casita haber estado aqui .

en una casita pequenita en medio de lluvia pesada

en un parada de autobus

この2ヵ月弱、自転車に乗れることにただただ幸せを感じ、毎日ペダルを漕ぐことが純粋に楽しくて仕方なかった。12年間、ただ前に進むことだけ考えて、当たり前のことのようにやってきたこと。移動するという行為が当たり前にできることではなくなってしまった世界で、実際にその自由を奪われたとき、はじめて僕は自分が心の底から自転車旅が好きなのだと、すべての根幹に在るようなことに、向き合う機会を与えられたような気がする。

espero que pare la lluvia

en un refugio para pasajeros de barco

6月3日夕刻、何度も何度も雨宿りを繰り返しながら、いよいよプエルトモンの町に到着。2020年3月、世界がおかしくなり始めていた当時、それがこちらまで迫っていることに全く気付いていなかった僕は、大陸最南端に向けて突っ走ることを微塵も疑わず、この町の古着屋で防寒対策に靴とジャケットを購入して、チロエ島へと向かった。そのとき刻んだ、アラスカから続く古い轍を見つけ、今回街道南端から引っ張ってきた新たな轍をそれに繋ぎ合わせた。ケジョンのキャンプ場のオーナーの友人であるミトさんのお宅に1泊させて頂き、翌日夕方発のバスに、分解した自転車を積み込んで、1,000km北方にあるサンチアゴへと向かった。

puerto montt en la distancia

con familia de mito

ruta mia de la patagonia

パタゴニアと違い乾燥し、南から来ると春のように暖かいサンチアゴ。この町では、昨年2月道中で出会い、ビオビオ州にあるサルト・デ・ラハという滝を一緒に自転車で走って訪れた、歯科医のガロさんのお宅を訊ねた。1年4ヵ月ぶりの再会。チロエ島に着く前も着いてからも気にかけて連絡をくれ、サンチアゴにまた戻ってくることがあれば、泊まっていきなさいとずっといってくれていた。パンデミック禍にも拘らず、受け入れてくれたガロさんと家族の方々にも、本当に感謝しなければならない。

con Galo en febrero 2020

69歳のガロさんは、ピノチェト独裁時代、強権政権に友人を殺された。その後、反政府活動を主導した罪でガロさんは投獄され1年を収容所で送ることに。釈放された後の1975年、身の安全のため仲間とエクアドルのキトへ政治亡命し、以来9年間をその地で過ごした。ピノチェト独裁が未だ続くなかの1984年に帰国。診療所で歯科医として働きながら、チリの未来のため彼は仲間とともに独裁政権と戦い続けた。そんな勇敢な男、ガロさん。世界史に精通し、キトで地理の先生をしていたこともある彼は、僕の旅に大きな関心を持ってくれており、僕の旅で起きた一つ一つの出来事を、表面的にではなく、僕自身が忘れているような深いところまで掘り下げて聞いてくれるので、話していてすごく面白かった。

mi bici

6月8日。前日に自転車を解体し、近所の自転車屋さんに譲ってもらった段ボール箱へのパッキングをすでに終えていたため、ガロさんの自転車を借りて、郊外の医療機関へ国内3度目となるPCRテストを受けに行った。その帰り路、僕はそのまま自転車で町を一望するサン・クリストバルの丘へと吸い寄せられるように向かった。よく晴れた日で、大気汚染でガスった首都の東の空には、白い雪を被った山々が朝からくっきりと姿を現している。僕を丘へと誘い出したのは、まさにそんなアンデスの山々の姿だった。

virgen

全身びしょ濡れで着いたプエルトモンでは、感傷的になる余裕もないままに慌ただしく過ごすことになったけれど、高台からサンチアゴの街を見守るマリア様の彫像にご対面したとき、思いがけず、旅が終わる感覚を手にした。チロエ島、および、パンデミックのさなかに走ったパタゴニアの大自然が広がる遥か南方を見つめているように見える彼女。僕のこともきっとずっと見守っていてくださったのだろう。中の祈祷所へと足を進め、胸に十字を書く代わりに合掌しながら、無事にここまで来れたことへの感謝を伝えた。''Nosvemos'' (また南米に戻ってきます) そう最後に挨拶し、聖母の前をあとにした。

santiago



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hiromu jimbo

Author:hiromu jimbo
I'm in a challenge to cycle around the world
since May 2009,started from Istanbul,Turkey.
Motivation for this journey just comes from big curiosity about the world.I'd like to see and feel the ordinary life of the people living in defferent cultures.

2009年5月末イスタンブールより
自転車世界一周挑戦中です。
世界で起きていることへの大きな好奇心がペダルを回しています。その土地で生きる人の日常生活を見ていけたらと思います。

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my journey
*special thanks to sekiji-san

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68,781km (May09-May14)
77,679km (July14-June21)

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